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――たいていのとき、世界のたいていの部分では、人がどれほどがんばろうとも意味のあることは何も起きない。
G.M.ワインバーグ
*
目を覚ますとそこにいた。
名前も知らない雑草がまばらに生えた野っ原はものの見事に何もない。例えばクレアシオンの足元とかそれよりもっと下の土の中だとかにはよく分からない生き物のよく分からない生態系が築かれているのかも知れないが、そういう不可視領域を切り捨てたところで良心は痛まない程度に何もない。青臭い風が吹いて切るのも忘れた前髪が揺れた。視界が広くなるとともに、少しだけ思考が明瞭になった。なんだこれは、と呟いた。
クレアシオンは封印されていたはずだった。親友の肉体と父親の魂を道連れに、ここよりも更に何もないところで眠り続けることになっていた。永遠に。予定と現状の大幅な食い違いによって、彼は自分が何かしら大きな失敗をしたらしいことを悟った。
次の一手を打たねばならない。クレアシオンがここにいるということは魔王も目覚めているかもしれないということだ。あれと再び障害物競走兼鬼ごっこ兼かくれんぼ兼殺し合いを繰り広げるのはあらゆる意味で避けたかったので、可及的速やかに見つけ出さねば。
兎にも角にも動かなくてはいけない。勇者は立ち上がろうとした。失敗した。増水した川に設置された水車の先端に脳味噌を括りつけて放置した感じの中々酷い眩暈に襲われ、膝が力なく崩れた。肩を強打した。細長い草の根元は白く、赤茶けたちいさな蟻が一生懸命に上り下りを繰り返している。勇者、尽きる。そして大地の養分になる。屍体の上に桜の樹でも植えておけば、ここも少しは意味のある空間になるのだろうか。そういうような愚にもつかないことをぼろぼろと考えながら意識を薄め続けていたら、頬にぺちぺちと軽い衝撃を感じた。
目の前に土で汚れた靴があった。軋む首の角度を上げていくと、膝小僧があり、しろい喉があり、そして黒い瞳と視線があった。茶色の髪の子どもはしゃがみこんだ姿勢でクレアシオンを見つめていた。
「えっと、大丈夫?」
攻撃魔法をぶっ放した。
間抜けな悲鳴を上げつつ転がった少年に、クレアシオンは舌打ちを零す。肉の焦げるにおいはしない。外した、と言うよりも出力が足りない。火球の直径は想定よりも遥かに小さかった。見れば、左手の甲はまっさらだ。
「何すんだよ馬鹿死ぬかと思ったわ!!」
魔力が制限されている。もしかしたら、封印はまだ完全には解けていないのかもしれない。魔王は次元の狭間にいるのか、それともクレアシオン同様力を制限された状態で魔界か人間界のどこかに放り出されているのか。いずれにせよまだ希望は潰えていないらしかった。
「あのーもしもし聞いてる?おーい?」
後手に回るわけにはいかない。どうやって探す?魔力感知が手っ取り早いが、こんな有様では自分で行うのはまず無理だ。魔王に批判的な魔族、勇者に協力的で感知系魔法を得手とする者はいなかったか。
「おいってば」
頭を引っぱたかれた。すぱぁんとなかなかいい音がした。無理やり思索を中断させられ、クレアシオンは少年を睨みつける。馬鹿みたいな顔をした馬鹿野郎はあからさまにたじろいだが、一瞬の後、はっとしたように取り繕って見せた。黒い目には光が無く、それでいて内側の方で何かが燃えているように見えた。
「お前、クレアシオンだよね。初代のルキメデスを封印した勇者」
「……それがどうした」
「なんでこんなとこにいるの」
それはこちらの台詞だ。クレアシオンは独りごちる。血反吐を吐き肉を削り魂を磨り潰してやっと成し遂げたと思ったのに、この状況は一体なんなのだ。湧き上がる焦燥とイラつきをぶつけてやろうとしたら、また視界が回り始めた。よろめいて手を付くが、上手く体重が支えられない。またかと目を閉じたその時、腕を掴まれる感覚があった。少年の手は少しだけ湿っていた。
「さっきからふらふらふらふら何やってんの……。貧血?低血糖?」
「うるさいぶち殺すぞ」
「無理だろその様じゃ」
図星だった。少年はクレアシオンの了承も得ないまま己の肩を押し貸しし、よっこいしょの掛け声とともに半ば引きずるようにして歩きはじめた。脚の進みに迷いはない。どこに連れていくつもりだ、と訊いてみたら、いえ、とだけ応えが返ってきた。
「何を企んでる」
「別に何も。行き倒れてるひと見かけたら助けるもんじゃないの?」
日なたのにおいのする髪がクレアシオンの頬に触れた。柔らかに細い茶色の毛束を割り割くように、少年の米神のあたりにはちいさな角が生えていた。
「警戒はしなくて大丈夫。少なくとも、ボクとレイオットの村人はお前の敵ではないはずだから」
クレアシオンはようやく、ここが魔界であることを理解した。
*
ごとり、と音がして、古臭い樫のテーブルに皿が置かれた。
「これは」
「チャーハン」
「寝起きの人間に炒めもんかよ。胃痙攣起こすわ」
「……あ」
慌てて持ち去ろうとする少年の手を払いのけ、御座なりに手を合わせてからスプーンを取った。申し訳程度の具材と共に火を通された茶色の米は、なんというか、味が薄かった。そこにだけ着目すれば粥か何かと変わらない。これは大体粥だ。うん大丈夫。
「よく食べるなあ」
「油が撥ねる音を聞いたら突然死ぬほど腹が減った」
「そりゃあ5年も飲まず食わずならね」
5年。クレアシオンがルキメデスを封印してから、外界ではそれだけ経過しているらしい。連れてこられる途中で垣間見たレイオット村は、畑が広がり鶏の鳴く牧歌的を絵に描いたような場所だった。戦禍の影はどこにも見当たらず、住民はそれぞれの日々を忙しそうに生きていた。魔王がいなくなったから。魔王が封印されたから。勇者と共に。
「……ルキメデスの行方を知らないか。大きな街が破壊されたとか人がたくさん死んだとか、そういう噂でもかまわない」
「え、魔王も戻ってきてるの!?」
「まだ何も起きてないってことか」
アルバと言う名前の少年は見事なまでに血の気を失くした。父親の研究室にあった赤い試薬紙と石灰水のことを、クレアシオンはぼんやりと思い出した。
ルキメデスの被造物たる魔界の住民たちと雖も無条件に父を愛しているというわけではない。狩るものと狩られるもの。この新しい世界に於いてはあらゆるものが乱暴に色分けされていて、目の前の子どもはどうやら後者に属するようだった。見開かれた瞳には恐怖が溢れるようにして揺れており、歯の根が鳴る音が聞こえてきそうだった。
クレアシオンは机を見た。見てはいなかったが見たことにした。時間が無かったし、何よりアルバに掛ける言葉が見つからなかった。立ち上がって短く礼を言う。背を向けて歩き出そうとした途端、腕に縋りつかれてしまった。
「重い離せダッコちゃん野郎。そっくりなのはツラだけにしろ」
「眼病かお前!?あんな唇厚くないっていうかそうじゃなくて、どこ行くつもりなの」
「ちょっとお花を摘みに」
「一瞬でばれる嘘吐かないで!」
「……ここに居たって埒が開かないだろ。もっと人がいそうな所で情報を集める」
「王都の方はまだごたごたが続いてるんだよ。小競り合いはしょっちゅうらしいし、時々死人まで出てるって話。そんなとこにクレアシオンまで出てきちゃったら絶対に酷いことになる」
「他に当てが無い。変装なりなんなりしてバレないように努めるさ」
「もうちょっとだけ待ってほしいんだ。うち、一応結界とか張ってあるらしいし」
「もうちょっとって」
ええと、と口ごもり、少年は壁に目を向ける。視線を辿った先にはカレンダーが吊ってあり、日付の一つに小さくマルが付けられていた。
「あと一週間、かなあ。ボクの父さん回診でこの辺一帯巡ってるから何か知ってるかもしれない。隣村の村長さんとかも診てたはずだから」
「医者の子なのか」
「モグリだけどね」
「き、畸形嚢腫……」
「ピノコじゃないよ!?」
喚くアルバを眺めながら、クレアシオンは考える。一週間。何とも微妙な数字だった。レイオットの北方には峻厳な山脈が聳っており、魔界の中央部から発せられるあらゆるものを遮断している。文化に外敵に北風に、そして情報も。温室めいた村は骨休めと保養地には適しているのだろうが、櫓を組むには最悪だった。
「……遠慮しておく。中央までは行かないにしても、せめて山を越え――!?」
激痛に襲われたのはその時だった。
冷たい汗が首筋から吹き出し、血流が重力に負けて降りてゆく。はらわたがきりきりと引き絞られ引き千切られる有様が見えるようだった。クレアシオンは腹を抱えて蹲る。嘔吐感が込み上げてきた。毒。劇物。人畜無害っぽい顔と込み上げる空腹感に負けてあっさり口にしてしまったが、食事の中に何か仕込まれていたのだろう。畜生ぶっ殺してやる――とまで考えたあたりで、泣き叫ぶような声が聞こえた。
「やっぱり胃痙攣起こしてんじゃねーかよぉ!!」
あ。
勇者は少しだけ死にたくなった。
*
わさわさ。わさわさわさわさ。わさわさ。
半笑いというかなんというか、名状しがたい表情を浮かべたナマモノどもがクレアシオンの目の前で蠢いている。飼いならされているのだから家畜か愛玩動物なのだろう。こんな進化を間違えたタコモドキを愛したくはないから後者は除外。毛が生えていないので、恐らくは食用。食用?食えんのかコレ。野菜クズを投げると、五本の付け根から舌のようなものが伸び、庭に放し飼いにされた5匹が一斉に食事を始めた。体表に見える口っぽいものはイミテーションだったらしい。気持ち悪怖い。
「餌やってくれたー?」
母屋の方から間の抜けた声が聞こえた。石の壁に空いた窓から身を乗り出し、アルバが笑っていた。微かに漂う油のにおいから判断するに、朝に続いて昼食もまた炒め物だろう。バリエーションが乏しい上にそんなに美味しくない。クレアシオンが視線を逸らすと、早くも食事を終えた謎生物どもが目に入った。
「……なあ、こいつら一体何なんだ。種族名は」
「マタデー」
「何の材料」
「マタデー料理」
マタデーを投げた。
「んごおぉお!?」
「すげえな顔面にクリティカルヒットかよ。下の口とキスしてろ」
「なんで事実を述べただけなのに甚振られなきゃなんないの!?」
「そこはかとなくイラッとした」
「ひっでぇ!」
鬼畜だのなんだのと吠えたてる少年と出会ってから既に三日が経っていた。胃痙攣に苦しむうっかり勇者に対して医者の息子は適切な処理を施してみせ、ついでに体力が回復するまで安静にしていろと宣った。手ずから粥を食わされるという嫌がらせに近い介護を甘んじて受け続けること一昼夜、そろそろ大丈夫だと立ち上がったら見送られる代わりにバケツを渡され庭に出されたというわけだ。アホなのだろうか。クレアシオンは溜息を吐く。アホなんだろう。落ちていた勇者を拾ってきて世話を焼きはじめる魔族も、よく分からないまま絆されかけている自分自身も。
「おわっ!?」
ぱたぱたと軽い足音が響き、裏口のドアが開いた。灰色の髪を二つに結った少女が立っている。年のころは10より少し下くらいに見えた。
「もーまた勝手に入ってきて……」
「アルバくんが悪いんだよー勇者さま独り占めにしてるんだもん!」
「具合悪いんだからそっとしといてって言ったじゃないですか」
「でもお外出てるってことはもうよくなったんでしょ?ずるいよ!」
そのまま二人はきゃんきゃんと言い合いを始めてしまった。やけに親しげだが幼馴染というやつだろうか。話の内容より関係性より置いてきぼりにされているのが気に食わなかったが、幼女の情操教育のために握った拳を何とか解いた。肉体の回復に伴って、クレアシオンの心には多少の余裕が出来ていた。
「その子は」
「ああごめん、長老だよ」
「は?」
「長老。うちの村の。ちなみに第一世代魔族」
「やだアルバくんってば!村長って呼んでって言ってるじゃん!」
恥じらう仕草で少女がアルバを突き飛ばすと、彼はそのまま凄まじい音とともに自宅の壁にめり込んだ。アバラがアバラがと喚く声はほとんど死人のそれで、少女が魔王のお手製であるという言葉を裏付けている。魔界自体出来て10年ほどしか経過しておらず魔族の年齢は外見からは判別できないということを、勇者は今になって思い出していた。
「……この村はこれでいいのか」
「分かんない」
アルバはほとんど泣いていた。
晩夏の日差しは魔界の空気の中にあって少しだけ比重が大きく、水中に放り込まれた砂糖粒のように穏やかで微かな軌跡を描きながら肩や首筋に降り積もった。どこか遠くの方から吹き付けるそよ風にはその堆積を削り取るほどの力はない。代わりに、季節が移り変わろうとするとき特有の少しだけ年老いたような、それでいて何かを期待しているような気配を上塗りして去って行った。牛だかマタデーだかヨジデーだかのぼやけた鳴き声が聞こえた。時計の針も歪んでしまうようなぬるんだ時間が流れていて、充分以上に眠ったはずなのに瞼の重さを感じた。
腰に纏わりついてくる少女と言葉を交わしながらアルバを見遣ると、やけにてきぱきした動きで壁の残骸を処理していた。アバラは治ったのだろうか。頑丈にできているものだなあと感動しつつ、クレアシオンは欠伸をひとつ噛み殺した。
「それで勇者さま、二代目とはもう会ったの?お手紙とか書いた?」
「まだ特に何も」
そういえばあの金髪の魔族にツクールくんを預けたのはこの近くの森だった。身の内に刻まれた呪いに打ち勝った男は今や二代目と呼ばれるようになっており、先代魔王の勢力を駆逐し魔界に秩序を齎すために戦い続けている。クレアシオンが眠っている間にも、世界は刻々と前に進み続けていた。
少女はにっこりと微笑んだ。
「勇者さま、今日はお話できて楽しかったです!アルバくんがおうちの中に押し込んで他人になど見せるつもりはないお前のことはボクだけが知っていればそれでいいんだって独占しちゃったからご挨拶に来るのが遅くなっちゃったけど」
「表現おかしい!ボク倒れた人間介抱してただけですよ!?」
「うん、まだ本調子じゃないんだよね。結界の外からじゃ分からなかったけど、これなら私にも殺しきれるね」
「……え?」
地面が割れる低い音。クレアシオンを串刺しにすべく灰色に捻じれた大樹の根が猛烈な勢いで伸びる。躱しきることが出来ず右脚を深く切り裂かれた。痛みによって視界の彩度が瞬間的に急上昇する。少女型の魔族は顔を顰め、アルバは驚愕に震えていた。
「なんで、何言ってんですか!?レイオットは二代目の保護下でクレアシオンは恩人で、」
「そうだね。でもそれって全部昔のことなの。私たちは今日と明日を生きていかないといけないから」
疲れ果てた声だった。
「政治って色々と難しいのよ、アルバくん」
一体どういった取引の結果なのかは知らないが、この魔族はクレアシオンを始末するつもりでいるらしかった。剣は家の中だ。魔力の量は何周もの差をつけて向こうが上回っており、回復すら満足に行えない勇者では万に一つの勝目もない。どうする。
血液を残らず蒸発させてしまいそうな激しい焦りを押し殺し、クレアシオンは眼前の敵を見据えた。鋭い眼光に怯んだ様子もなく、少女は静かに距離を詰めてくる。死刑執行人のように。
けれど、突然その歩みが止まった。
「逃げろクレアシオン!!」
アルバが少女を組み伏せていた。死角から体当たりしたらしい。体格差のある相手に圧し掛かられ、少女が呻き声を上げた。
「早く行けよ、お前はこんなとこで死んじゃ駄目だ!」
吼えるように祈るように少年は叫んだ。死んじゃ駄目だ。その響きに突き動かされクレアシオンの脚が動く。血を流し続けながらも体重を支え地を踏みしめようとした。
「……どいてよ」
鈍い音と共にアルバが跳ね除けられた。地に転がり身悶える少年を一瞥し、それから少女はクレアシオンに視線を移した。その眼には温度の低い怒りが浮いていた。
「みんなのためなんだってば。時間も無いんだから次邪魔したら手加減しないよ」
殺される、と思った。逃げることも出来ない。下手に抵抗すれば恐らくアルバも巻き込まれる。脊髄を黒ずんだ塊が駆け上っていく。魔力が足りない。魔法が使えれば。封印魔法さえなければ戦えるのに。
「封印魔法……?」
誰がそんなものを掛けたのだ。決まっているクレアシオン自身ではないか、それならば解除だって自分自身で出来るはずだろう。封印を解けば魔王が目覚めてしまう。それがどうした。もう一度眠らせればいい。魔力さえあれば感知も空間跳躍も再封印も、あの男が暴れ出す前に何もかも終わらせることが出来る。
不可視の鍵を握りしめる。暗い所に詰め込まれた酷く重いものを拾い上げるために。かちりという音がして、義務の紋章がまた浮かび上がった。
息を飲んだ少女を吹き飛ばし、アルバの呆然とした呟きを聞いて、それから勇者クレアシオンは定められた道筋を粛々と辿った。
胸の痛みは錯覚でしかない。帰るべきところに帰るだけであって、こんなものはひと時の夢と変わらない、何の意味もない出来事に過ぎないのだから。
何も起こらなかった。