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「あなたは幸せじゃありませんでしたか」
「え?」
「オレといて、オレと旅をして、幸せではなかったんですか。楽しいと思いませんでしたか。こんな時間がずっと続けばいいとは思わなかったんですか」
「……思ってたよ」
「なら、どうしてそれを捨てようとするんです?ずっとこのままでいいじゃないですか。このまま一緒に旅をして、魔物を送還して、いつまでも三人で馬鹿をやって。それで十分でしょう」
「そうしたら、幸せかな」
「ええ」
「そうしたら、何も悪いことは起きなくて、誰も泣かなくて良くて、いつまでもみんな笑っていられるのかな。苦しいのも悲しいのも全部抜きにして」
「はい」
「何一つ失うこともなく」
「そうですよ。何も失くさず、何に捨てられることもなく、選ぶことも迷うことも救うことすらしなくていい。あなたはただ、オレといればいいんです」
***
ロスの自室の机上には、両手で抱えられるほどの箱が載せられている。天に当たる一面だけが切り取られた、横に長い直方体。内側は空なのか海なのか曖昧な鮮やかな水色に塗られており、その上に細かく砕かれた砂利が敷き詰められている。それだけだった。その他には何もなかった。人形も、檻も、林檎の樹も、箱庭を構成すべき要素の一切は目に見える形では配置されていない。そうであったとしても、恙無く機能することになっていた。
これは世界のミニチュアだ。
そして、戦士ロスの行き場の無い願望を照らす、ひとつの鏡なのだった。
この箱庭の外側のお話。伝説の勇者が眠りから醒めて、ひとりの子どもと一年かけて旅をした。嘘と冗談ばかりで固めた夢のような日々の中、使命だとか責任だとか罰だとか、魔王だとか勇者だとか、そういうどうしようもないものどもは何もかも頭の隅に追い遣ってしまって、ただ楽しいから笑っていた。日々は幸福で、満ち足りていて、幼子を寝かしつけようとするように優しかった。手の込んだ幻想は穏やかに連なり続いて行くものだと、根拠も無しに信じていた。父の名を襲った少女にクレアシオンと呼ばれるまで。
透明になりかけていたタイムリミットが突然輪郭を取戻し、聞き覚えのある笑声を立て始めたのだった。道の先に浮かび上がり手招きを続けるそれは恐らく魔王と同じ顔をしており、ロスの左手は夜毎にずきりずきりと痛むようになった。
諦め、手放し、置いて行かねばならないのは分かっていた。けれど、日常に甘やかされて萎えた腕は義務の重さに軋み続ける。破綻と帰還のどちらが早いのか、彼自身予想が付いていなかった。
声を掛けられたのは、悪夢に眠りを脅かされ、街にあくがれ出たある夜のことだった。
「お困りですか」
男のようにも女のようにも聞こえる、酷く掠れた声がロスを呼び止めた。金属質な響きと喘鳴めいた呼吸音の入り混じるそれは、ただ鼓膜を揺らしただけで激しい不快感を呼び起こすのに十分なほどだった。
視界を巡らせれば、一つだけ明かりの灯らない街灯の下に、薄汚れた色のローブを頭からすっぽりと被った痩躯があった。発話して尚その存在感はあまりに希薄で、気配と呼べるようなものはまるで存在しない。干乾びた質感で佇む影は、自身が異形であることを誤魔化す気も無いようだった。
「……何者だ」
「しがない物売りです。あなたにぴったりのものがございますので」
背後の荷車から取り出されたのは木製の箱だった。褪せた外側と鮮やかな水色に着色された内側の不釣り合いさが目に痛く、ロスは顔を顰める。
この異様なシチュエーション、そして物品自体から微かに魔力の気配を感じるあたり、何らかの呪物である可能性は相当に高い。それなのに何故か彼の腕は伸べられてゆき、意に反して箱を受け取る形を作ろうとしていた。抵抗するという選択は、既に許されていなかった。
「――箱庭を作りなさい」
音程の定まらない声がざらざらと耳の奥を滑り落ちる。何かをこそげ取ると同時に注ぎ込み植え付け内部から濁らせようとするそれは、半ば呪詛に隣接した暗示であった。
「うつくしいものだけを選び取り、一瞬を無限遠に引き伸ばしてあなたの世界を組み上げるのです」「砂と共に願望の全てを注ぎ込みなさい」「失ってしまった過去と失いゆく現在を逃さず掻き集めて閉じ込めなさい」「箱の中の世界はただそれだけで完結し、あなたはあらゆる喪失を免れる」「急いで」「この中に囲われてさえいれば」「あなたが望み」「否定され」「分不相応にも求め続けた幸福は」「揺るがぬ真実として存在し続けるでしょう」「早く砂を敷くのです」「手遅れにならぬうちに」「恐れた別離が追い付く前に」「早く」「はやく」「はやく」「はやく」「早く」「はやく」「さもなければ」「また」
繰り返される音の群れは何重にも重なり連なって、存在の重力で以て正気と自制を捻じ曲げようとする。秒ごとに加速度は増大する。呼吸と嗚咽が混線する。頭ががんがんと痛んで視界が回り始めた。夜の闇と虚ろな光は伸び縮みを続けて神経を焼き、耐え切れなくなったロスはその場に頽れた。
身を起こした時には自分の他に人影は無く、ただ奇妙な箱だけが残されていた。
捨てようとして、叩き割ろうとして、燃やそうとして、どれ一つ実行に移すことは出来なかった。三日間の不眠の後、ロスは結局砂を注いでしまった。
深夜、人の目が無いのを確認してから宿屋の裏庭に出た。鍵の壊れた倉庫から移植箆を拝借し、粒の大きな砂を掬い上げては箱の中に移し替えていく。通りの向こう側に立つ街灯が朧な灯火を投げかけて、手元と木箱をぼんやりと照らした。星明りすらない夜に、さくり、さくりという音が溶けていった。
「……何してんだ、オレは」
底面の水色が砂利に覆い尽くされた時、ロスの手が止まった。虚脱感が脳髄まで染み渡り、絞り出すように自嘲が漏れた。馬鹿げた真似をしたものだ。この程度で逃げ切れる筈が無く、そして、逃げることなど許されていないというのに。
部屋に戻らなくてはならないと思った。ルキは別室で、アルバの眠りは深い。神経質に足音を殺さずとも、恐らくは気付かれないだろう。
景色がおかしいのに気付いたのは、立ち上がってからだった。
真夜中だったはずの周囲が、一転、橙の光に染め上げられている。石と木で出来た街は消え、代わりとばかりに緑の草原が広がっていた。彼方には記憶の底にこびり付いた山並みと、沈みゆく夕陽の残滓があった。
ざり、と土を踏む音。振り返れば、長い金髪をひとつに括った女性が立っていた。
「こんなとこにいたのね。もう夕飯出来てるわよ」
その女性が母親であること、自分が10を超えたばかりの子どもであること、そして、ロスという名前であること。