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その日、クレアシオンは初めて人を殺した。
相手は二人組の盗賊だった。日中の強行軍で軋む体を無理やり寝かしつけ木陰で微睡んでいると、近くから草を踏む音が聞こえた。警戒感に意識が浮上しかけると同時に地面に引き倒され、肩を強かに打ち付けた。乱暴に掴まれた前髪がぶちぶちと抜ける感触があった。瞼を開けると血走った目が視界に入った。太った男は腐った魚の臭いがする息を吐きながらクレアシオンの胴体を押さえつけ、腰帯を毟り取ろうとしていた。蛞蝓のような舌が黄色い歯の間でぬめりと光るのが見えた。残念なことに、何をしようとしているのか分からないほどクレアシオンは馬鹿ではなかった。
頭に血が上る音を聞きながら、少年は男の股間を思い切り蹴り上げた。相手が低い呻きを漏らして身を引いた隙に短剣を抜き放つ。体勢を整えられる前に頸を深く斬りつけた。天地を間違えた雨のように温く鉄臭い液体が飛び散りクレアシオンの顔と上半身を濡らした。隙間風のような奇妙な呼吸音が聞こえた。勢いよく血を噴き上げたまま男はどさりと倒れ伏した。
「ひっ……!」
声のした方を見ると足を縺れさせながら逃げ去ろうとしている背があった。手にはクレアシオンの路銀と僅かばかりの食糧を詰めた背嚢を鷲掴みにしていた。それを認めた瞬間に口が勝手に呪言を紡いでいた。地面に罅割れが生まれ、男の足が止まる。次の瞬間、地の奥から生えた土の杭が男の肛門から口までを一気に串刺しにした。早贄のようになった男の手から背嚢が滑り落ちるのが見えた。
自分の他に動くものがいなくなって、クレアシオンはようやく我に返った。同時に、先ほどまでの怒りや興奮とは違うものが全身を駆け巡りはじめるのを感じた。それはすぐに震えとなって、少年の歯の根をがちがちと揺らした。クレアシオンは足元におおきな血だまりが出来ているのに気付き、立ち上がろうとした。足が萎えて上手く動けなかった。辛うじて力の入る手で這いずるようにして体をずらした。下衣はたっぷりと血を吸っていて、動いた軌跡に沿って夜目でも分かるほどの黒い跡が残った。
あ、ああああ、あああああ、喉の奥から勝手に声が漏れ始めた。ぼとりぼとりと涙が零れ落ちていた。透明だったはずの滴は頬にこびり付いたものと混ざってどす黒い色をしていた。恐ろしかった。クレアシオンは人を殺してしまった。夕食の鶏を絞め殺すよりも毒の息を吐く蛇を倒すよりも遥かに簡単だった。仕方なかったのだ。殺さなければ荷物を奪われていたし己は犯されていただろう。生きるためだ。クレアシオン一人が生きるためにクレアシオンは人を二人殺した。死体の濁った眼が、眼が、眼が、眼が、暗闇を貫いて間違いなくクレアシオンを見ていた。瘧のような震えはいよいよ激しくなっていた。呼吸のリズムがずれ始めるのを感じた。この世の全てが無言で自分を見つめている気がした。恐ろしかった。止まらない嗚咽と一緒に苦い胃液がせり上がってきた。クレアシオンは思わず口を押さえたが、その手には死んだ男の血がべっとりと絡みついていた。鉄の味がした。最後の防波堤が壊れる音が聞こえた。15になったばかりの少年は腹の中のものを全て吐いた。
*
それから三日が経ったが、クレアシオンは未だに食物を口に出来ずにいた。そもそも食欲がなかったし、無理やり噛んで飲みこんでもすぐに激しい吐き気に襲われた。彼は己の精神の脆弱さに舌打ちをしたくなった。仕方がないので足のふらつきや低血糖による意識の混濁は魔法で押さえつけることにした。眠りも酷く浅く、むしろ悪夢によって体力は削られていった。
初夏の夜空にはまばらに黒い雲が散っていて、風の気まぐれに従って欠けた月を覆い隠したり露わにしたりを繰り返した。眠れない少年は何を思うでもなく、ただその広大な漆黒と光の反復を眺めた。そこは全ての悲しみから隔たった場所で、クレアシオンは決して辿りつくことの叶わない世界だった。やがて、薄ぼんやりとした青白い恒星の脇を一筋の星が流れた。何光年の彼方からひたむきに直進する星屑の輝きは、少年の瞳の中で屈折し、虚ろに消えていった。
(パパさんパパさん流れ星!っあーもう消えたはえーよ!)
(流星群なんだから焦らなくて大丈夫だよ。ほらまた来た)
(すっげー!あああ何お願いしよう考えてなかった)
クレアシオンは、星を見るのが好きだった人たちのことを思い出した。あの二人なら無為に輝く星々の名を知っていて、茫漠の夜空に星座の物語を読み解けたのかもしれない。だが、彼は今どうしようもなく独りだった。
また一つ星屑が流れた。
(ねがいごと)
クレアシオンはただ義務だけを負っていた。星に掛ける願いなど抱くことすら許されていなかった。手も体も血肉の内も全てどす黒く染まっていた。だから少年は散逸する思考に埋もれながら、ただ光を見送ろうとした。
空の彼方から尾を引く悲鳴が聞こえたのはその時だった。
*
「うああああああああ!?」
ひゅううん、という風を切る音と共に絶叫は音量を増していく。天から落下する黒い点にはやがて四肢が生え、人の形になり、恐慌に涙を浮かべた少年の顔が見え、そしてそれはクレアシオンから少し離れたところに轟音と共に着地した。あまりに意味の分からない光景にクレアシオンは呆然とした。なんだこれ。親方空から野郎が。
「いってえこれ絶対折れた……アバラとか腕とかボッキボキに折れた……」
地面に穿たれたクレーターの奥から声がした。馬鹿みたいな高さから落ちてきたにもかかわらずまともに生きているらしい。土煙を立てつづける穴の淵から回復魔法の光が漏れてきた。
「うぐぐ……なんなんだほんとに」
穴の奥から腕が伸び、茶色の髪の青年が顔を出した。痛みに顰められた色の違う瞳がクレアシオンを見る。目があった瞬間に激しい恐怖を覚えた。この男からはよく知った気配がする。父親の、ルキメデスのにおい。未熟な器から溢れ出るほどの膨大な魔力は、まともにやり合えば殺されるのは確実なほどのものだった。
「あれ?お前、シオ、」
「――っ!!」
相手が言い終わる前にクレアシオンは魔封じの呪文を紡いでいた。紫に光る魔力の鎖が化け物の身体に沁み込み体を魂を縛り付ける。え、あれ、と間の抜けた声で慌てているうちに転移魔法を重ね掛けすると、青年の身体はぶれながら消え去り、後には夜の闇と静寂だけが残った。
突然の事態に体が軽く震えていた。なんで上から人間降ってくるんだ。というか誰なんだあれ。めっちゃびっくりした。
考えたところで全く分からなかった。クレアシオンは毛布をかぶり直し、寝ることにした。