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鼈甲のフレームにはぶ厚いレンズが嵌り、目の回るような同心円を浮かびあがらせている。青年が牢を訪れてから、アルバはずっと虫眼鏡を弄繰り回していた。瑕の有無でも確かめるように天井に据えつけられたランプに翳す。そして今は、腕をまっすぐ伸ばして、机向こうで頬杖をつく男の顔に向けていた。薄い水色のガラスの奥では、ただでさえ大きな黒い目がさらに大きく膨らんでいた。何かを飲みこもうとしているのようだった。
「さっきから何してるんですか」
「探偵ごっこ」
単語ひとつだけで答えを返し、アルバはまた虫眼鏡遊びに戻った。目とレンズの距離を遠ざけ近づけ、かと思えば突然机の木目を読み始めた。そしてまた彼を見る。成功した、と言って満足げに頷いて、少年はくしゃりと笑った。髪の毛と同じ色、育ち切らない樹の色をした眉尻が緩やかな下降線を描き、溜息を吐きかけてやめてしまったような、或いは粗忽屋の牧師によく似た表情を作り出していた。
「また変な小説でも読んだんですか。課題抱えてる割に余裕綽綽ですね」
「今日はカテキョの予定日じゃないじゃん」
「だからってオレの目の前で意味不明な真似してて良い理由にはならないと思いますが」
「意味不明じゃないって。さっきも言ったじゃん、探偵だよ」
行儀悪さと器用さで以て椅子を一本足で立たせ、アルバは小さく伸びをする。囚人服の上衣が捲れ、白い腹と臍の窪みが露わになった。青年は黙ってそれを見ていた。
無視して本題に入ってもいいが、放っておくのも何か気にかかる。時間にして数秒ほど逡巡してから、彼は目前の疑問の方に手を伸ばすことにした。単なる興味と、ほんの小さな、しかし酷く焦げ臭い畏れのようなものが首筋にあった。
「……別に事件は起きてないと思うんですが」
無理な力に耐えかねたのか、きい、と椅子が悲鳴を上げた。
「事件が起きてようと起きてまいと探偵はルーペを持ってるもんだろ」
「装備欄ひとつ塞がっちゃうじゃないですか」
「活用してれば問題ないよ」
「そうやってアホみたいに玩具にして、どのあたりが活用なんですか」
茶色の頭がゆらゆらと不安定に揺れていた。アルバはまた例の微笑を浮かべた。
「どうなんだろうね。推理してみれば」
「探偵はあなたでは」
「推理対決とかよくあるじゃん。密かに憧れてたんだ」
アルバが手首を返したために虫眼鏡が明かりを跳ね返し、青年の赤い眼を突き刺した。思わず目を眇めると、短い謝罪に続いて静かに腕が下ろされた。それきり口を噤んでしまい、代わりに青年を見つめ始めた。瞳の中には、何故か困ったような影が動いていた。
「推理と言ったって……」
彼は意識しないまま鼻先を搔きそうになって、なんとか手を止めた。虫眼鏡で何をしようというのか。いくらこちらが黒ずくめだからと言って洞窟の中では焼き殺すことも出来はしまい。加えて、そうする理由も無いはずだ。少しばかり頭痛を覚えた。
「手相判断とか」
「探偵の仕事じゃないよそれ」
唇の尖らせた形と淡い色の幼さが、ひと揃いになって青年を責め立てていた。はずれ、という言葉を耳にして、彼は低く両手を上げた。降参の意思表示だった。
「そもそもルーペが何のためにあって、探偵は何のためにそれを使うのか、って話。証拠の捜査だろ。つまりは探すため」
アルバはまた腕を上げ、虫眼鏡を青年に向けた。見ているようで、見ていなかった。
「それから、見つけるため。アルバがロスを探して、シオンがクレアを探したのと同じ」
その時になってやっと、青年は虫眼鏡から魔力が立ち上っていることに気付いた。移身の魔法を見透かすことも打ち破ることも出来ないような微弱なそれは、けれど、別の水脈を辿って彼の本来の輪郭をなぞってしまっていた。
論理回路を弄ったんだ。柔らかな声は絞殺するような響きがあった。
虫眼鏡が探すものを映すのなら、映らないものは探されていない。アルバが探したのはロスであって、他の誰かが探したのも、同様に他の誰かでしかなかった。
「今日は何しに来たの、エルフ」
先走って許してしまおうとするような顔だった。凸レンズ越しの空白によって、アルバはエルフを見ていなかった。