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――「戸棚という戸棚、へやというへやは、どれをあけてみることも、中にはいってみることも、おまえの勝手かってだが、ただひとつ、この小べやだけは、けっしてあけてみることも、まして、はいってみることはならないぞ。これはかたく止めておく。万一にもそれにそむけば、おれはおこって、なにをするか分からないぞ。」
奥がたは、おいいつけのとおり、かならず守りますと、やくそくしました。やがて青ひげは、奥がたにやさしくせっぷんして、四輪馬車に乗って、旅だって行きました。――
*
王宮戦士というのは要するに公務員だ。
上下関係は厳しく命令は絶対。自分の価値判断など差し挟めば処罰謹慎減俸除籍、訓練はきつく帰るところは薄暗い宿舎。だが給料はなかなかのもので将来性も抜群だ。幼い身でありながらそういうシビアな世界に身を浸していたトリュウは、当然のように現実的な人間になった。
魔王討伐だの勇者の護衛だのとなにやらメルヘンな任務に就いてしまったが、然るべきところから文書の形で命令が下され契約通りの俸給が発生している時点で常の仕事と変わりはしない。文句があるとすれば、担当勇者の当たり外れに関する保障制度が無い点だろうか。トリュウの勇者がレッドフォックスだったなら最初からこんな面倒くさい思いはせずに済んだに違いない。
便利な人間なのだろうな。そう思っていた。もっと切れる鋏がほしいとか足の速い馬が羨ましいとか、その程度の憧れだった。
けれど、彼はそんなものではなかった。
その程度のものであってくれなかった。彼は魔法のかかったかぎを持っていて、錆びついていたトリュウの心を開け放ってしまった。目を開いていた筈の少年は、彼と出会って以来ずっと醒めない夢を見ている。
勇者になりたかったわけではない。アルバのようになりたかったのだ。彼を知りたかった。故郷を訪ね、彼の家族に友人に話を伺い、長期休暇を取って彼が救った街を旅した。城の牢屋に居る間は進んで食事係を引き受け、身柄が引き渡されてからは人の身でありながら度々魔界を訪れた。彼はいつも鉄格子の向こう側にいた。普通の青年のように笑い何の気負いもなく会話をするくせに、アルバには自由がない。
――この人を救ってやる。世界などどうでもいいが、私はこの人の勇者になりたい。
少年の内に燃える思いは、きっと美しいものだった。
*
「これ」
洞窟の番人が無造作に投げ渡したのは鈍く光る鍵束だった。
「一番小さいのが牢屋の鍵ほが。責任問題になるから失くすなよ」
「……え?いいんですか」
「良くはないけどねえ」
何回も来てるのに鉄格子越しってのも可哀想だし、サービスってやつよ。フェブルアール・ツヴァイはそれだけ言い残してどこかに行ってしまった。
ちゃらり、と掌で音がする。金属の冷たさに反比例するようにトリュウの心は興奮に震え、全身の血が沸き立つような思いがした。アルバと間近で接することが出来る、話をすることが出来る。それが許されているのは三代目魔王と家庭教師の二人だけだったはずだ。外堀を埋めただけとはいえ彼の特別に一歩近づけた事実に、顔が緩むのを抑えられなかった。
「ししょー!トリュウです!あなたの一番弟子の王宮戦士エルマ・トリュウが参上しましたー!」
「うぎぎぎ絶叫しなくても聞こえてるから……ここ洞窟なんだってば……」
いつも通りの対面。けれど今日は違うのだ!トリュウは鉄の扉まで駆けて行く。
「え?あ、ちょっとトリュウ君!?それは駄目、」
がちゃり。
彼が禁止するのも無視して、魔法の鍵が錆びた扉を開ける音。
戻れない小べやが開いた。
*
――窓がしまっているので、はじめはなんにも見えませんでした。そのうち、だんだん、くらやみに目がなれてくると、どうでしょう、そこの床ゆかの上には、いっぱい血のかたまりがこびりついていて、五六人の女の死がいを、ならべてかべに立てかけたのが、血の上にうつって見えていました。これは、みんな青ひげが、ひとりひとり、結婚したあとで殺してしまった女たちの死がいでした。これを見たとたん、奥がたは、あっといったなり、息がとまって、からだがすくんで動けなくなりました。――
*
アルバの焦り様に反し、トリュウの身には何も起きなかった。大袈裟なんですよ師匠は、と言って勝手に椅子を出して座ったところ、ぺちんと頭を叩かれる。
「ボクが物凄い魔力抱えてるって知ってるだろ?暴走したら大変なことになるんだからあんまり軽率なことしちゃ駄目だよ」
「……すみません」
アルバは目を合わせて真剣に叱ってくれた。そのことにトリュウの心に灯る暖かな灯は一層輝きを強くする。物心ついてすぐ親元を離れたトリュウが手に入れられなかったもの。それをくれるこの人は、やはり特別な人なのだ。
僕も彼の特別に、唯一になりたい。かつての旅の仲間たちよりも上の位置に立つためには彼らが出来ないことをしなくてはならないのだろう。彼をこの暗い檻の中から攫って光を見せてあげられたなら、それはアルバだけでなくトリュウの救いにもなるはずだった。
そのためには強くならなくてはいけない。強くなって、彼を蝕む魔力と言うやつを取り除く術を見つけ出してやるのだ。そうして一緒に旅をしてくださいと頼んだら、彼は頷いてくれるだろうか。
誓いと希望を胸に宿し、トリュウはアルバの手を握る。
「師匠、いつか私が救い出してあげますから」
一世一代の告白だった。
はずなのに。
「……うん?救うって、何から?課題地獄?」
それは嬉しいけど筆跡違うのバレたらボクぼっこぼこにされるからなー。笑っているアルバには何の他意も見当たらない。当然、悲壮感も皆無だった。
「いやあの、状況というか、牢屋というか……そうだ魔力!魔力がなくなればいいんですよね?」
「まあ、実はそれが根本的解決なんだけども」
「私が方法を見つけます!だから、」
「見つけるって言うか、既に方法はあるよ」
「え?」
「詳しくは言えないんだけど、魂の魔法使いっていう人がいるんだ。でも今度はボクから分離した魔力の行き場がなくなる。そっちの方が面倒くさいことになりそうだから」
その言葉に、トリュウの頭に血が上る。アルバの手を握る力を思わず強めてしまった。
「それって、師匠が世界のために犠牲になってるってことじゃないですか!」
「いや、魔力制御がきちんとできればいいんだけど、その……ボクちょっと覚え悪くて……」
トリュウの激昂にたじろいだ様子でアルバは首を傾げ、苦笑すら浮かべて見せた。
それを見て、聡い少年は察する。
――彼は救われたがってなどいない。
助けを求めることはおろか、我が身の不遇を託つことすらしていないのだ。生まれついての勇者らしい、自己犠牲精神に溢れた心性と言えなくもない。
アルバがそうしないのなら、彼を慕うトリュウこそが彼に代わって怒り、嘆き、声を上げ、救世の英雄に相応しい居場所を確保しなくてはいけない。そうするべきなのだ。
だが、トリュウは怖気づいてしまった。
トリュウはアルバを陽光きらめく小川のような人間なのだと思っていた。美しく澄みながらも多くの生き物を住まわせる清い流れなのだと。だが、小べやの奥にあったのは底の見えない深淵だった。
からからに渇いてしまった口をなんとか動かして、トリュウは言葉を紡ぐ。
「いや、でもその、なにか恩返しをしたいんです。私は師匠に2回も救われているんですから」
「別にそんなに気負わなくていいよ」
だってね、と勇者は続けた。
「どうやって助けたんだかボクの方はあんまりよく覚えてないわけだし」
トリュウは愕然とした。
この人は自分を見ていない。
*
それからあまり記憶に残らない話をして、トリュウは牢を出た。怒りだか悲しみだかよく分からない感情がぐるぐると渦をまいてどうしようもなくなり、思わず手の中の鍵束を握りしめる。鈍い痛みが走る。心はいつまでも重い。
こつり、と音。入り口からの光を背にして黒い影が立っていた。
「可哀想にな」
「……あんた、家庭教師の」
黒衣の男はゆっくりと歩を進める。光量の少ない洞窟の中では、その赤い目は古い血だまりのようだった。
「駄目、って言われたら却って開けたくもなるだろう。だが、一度心を惹くものを満たしてしまえばすぐに後悔がやってきて、高い対価を奪って行く」
「何が言いたいんだお前!」
トリュウから数歩の距離まで男は近づいた。その白い貌に浮かんでいるのは、純然たる同情だった。
「あの人の中には誰もいないってことだよ」
硬直した少年の手から鍵束がもぎ取られ、先に殺された家庭教師は奥の小べやへと進んでいく。
小さな鍵にはトリュウの血がこびりついていた。
引用:ペロー『青ひげ』より