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――一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実るようになる。
***
その日、クレアシオンは初めて人を殺した。
相手は二人組の盗賊だった。日中の強行軍で軋む体を無理やり寝かしつけ木陰で微睡んでいると、近くから草を踏む音が聞こえた。警戒感に意識が浮上しかけると同時に地面に引き倒され、肩を強かに打ち付けた。乱暴に掴まれた前髪がぶちぶちと抜ける感触があった。瞼を開けると血走った目が視界に入った。太った男は腐った魚の臭いがする息を吐きながらクレアシオンの胴体を押さえつけ、腰帯を毟り取ろうとしていた。蛞蝓のような舌が黄色い歯の間でぬめりと光るのが見えた。残念なことに、何をしようとしているのか分からないほどクレアシオンは馬鹿ではなかった。
頭に血が上る音を聞きながら、少年は男の股間を思い切り蹴り上げた。相手が低い呻きを漏らして身を引いた隙に短剣を抜き放つ。体勢を整えられる前に頸を深く斬りつけた。天地を間違えた雨のように温く鉄臭い液体が飛び散りクレアシオンの顔と上半身を濡らした。隙間風のような奇妙な呼吸音が聞こえた。勢いよく血を噴き上げたまま男はどさりと倒れ伏した。
「ひっ……!」
声のした方を見ると足を縺れさせながら逃げ去ろうとしている背があった。手にはクレアシオンの路銀と僅かばかりの食糧を詰めた背嚢を鷲掴みにしているようだった。それを認めた瞬間に口が勝手に呪言を紡いでいた。地面に罅割れが生まれ、男の足が止まる。次の瞬間、地の奥から生えた岩の杭が男の肛門から口までを一気に串刺しにした。早贄のようになった男の手から背嚢が滑り落ちるのが見えた。
自分の他に動くものがいなくなって、クレアシオンはようやく我に返った。同時に、先ほどまでの怒りや興奮とは違うものが全身を駆け巡りはじめるのを感じた。それはすぐに震えとなって、少年の歯の根をがちがちと揺らした。クレアシオンは足元におおきな血だまりが出来ているのに気付き、立ち上がろうとした。足が萎えて上手く動けなかった。辛うじて力の入る手で這いずるようにして体をずらした。下衣はたっぷりと血を吸っていて、動いた軌跡に沿って夜目でも分かるほどの黒い跡が残った。
あ、ああああ、あああああ、喉の奥から勝手に声が漏れ始めた。ぼとりぼとりと涙が零れ落ちていた。透明だったはずの滴は頬にこびり付いたものと混ざってどす黒い色をしていた。恐ろしかった。クレアシオンは人を殺してしまった。夕食の鶏を絞め殺すよりも毒の息を吐く蛇を倒すよりも遥かに簡単だった。仕方なかったのだ。殺さなければ荷物を奪われていたし己は犯されていただろう。生きるためだ。クレアシオン一人が生きるためにクレアシオンは人を二人殺した。死体の濁った眼が、眼が、眼が、眼が、暗闇を貫いて間違いなくクレアシオンを見ていた。瘧のような震えはいよいよ激しくなっていた。呼吸のリズムがずれ始めるのを感じた。この世の全てが無言で自分を見つめている気がした。恐ろしかった。止まらない嗚咽と一緒に苦い胃液がせり上がってきた。クレアシオンは思わず口を押さえたが、その手には死んだ男の血がべっとりと絡みついていた。鉄の味がした。最後の防波堤が壊れる音が聞こえた。15になったばかりの少年は腹の中のものを全て吐いた。
*
それから三日が経ったが、クレアシオンは未だに食物を口に出来ずにいた。そもそも食欲がなかったし、無理矢理噛んで飲みこんでもすぐに激しい吐き気に襲われた。彼は己の精神の脆弱さに舌打ちをしたくなった。仕方がないので足のふらつきや低血糖による意識の混濁は魔法で押さえつけることにした。眠りも酷く浅く、むしろ悪夢によって体力は削られていった。結果、クレアシオンは夜もなく昼もなくただ幽鬼の如くに歩き回る影法師となり果てた。
ふと、南の空が真っ赤なのに気が付いた。理由も考えないまま、クレアシオンの足は勝手にそちらに進路を定めた。彼の視界はぐらぐらと好き勝手に揺れていた。まだ幼さの残る頬を熱い風が嬲った。生きたものを舐め尽くす真っ赤な舌先が虚ろな目に映った。やがてそうした炎の存在を示す諸々は消え去って、焦げた臭いが鼻を掠めるだけになった。
木製の柵の残骸のようなものはおそらく集落の境界を示していたのだろう。小ぢんまりとした村とも呼べないようなそこは、今までクレアシオンが見た中でも最悪と言っていいほどに激しく蹂躙されていた。家だったであろうものは真っ黒に炭化し、焼け崩れ、或いは基礎だけ残して灰となり容赦を知らない風に乗って飛び散っていた。所々に影のようなひとがたが落ちていた。悲鳴は無い。畑と思しき場所はまだぶすぶすと黒ずんだ煙を上げていたが、火自体は消えていた。集落全体に充満した魔力の気配は薄らぎ始めている。おそらく炎を放った魔族が姿を消し、魔法が解除されたのだろう。
そこにあったのは大いなる破壊だった。最早一個の芸術作品に成り果てた過去形の生の痕跡を、クレアシオンは霞む目を凝らしてぼうっと見つめていた。
ここでたくさんひとが死んだのだ、と思っても、不思議と実感がわかなかった。自分はこれからどうすればいいのだろう。自分はこれからどうしたいのだろう。クレアシオンには何もわからなかった。死の静寂の中から何かが聞こえたのはその時だった。
「……っひぐっ、うぇっ……ううぅ、ぐすっ……」
音は喘鳴のようであり、押し殺した嗚咽のようだった。出処を探してクレアシオンはゆらりぐらりと歩を進めた。屋根が焼け落ちた小屋の前に座り込み泣いていたのは、茶色い髪の少年だった。
「……おい」
「うええぇ……うぁっ、ああぅう、ひっく」
しゃくり上げる背に声をかけても反応がない。クレアシオンがその腰のあたりに軽く蹴りを入れると、ようやく涙をいっぱいに湛えた黒い瞳が彼を見た。涙と鼻水と煤と火傷でぐちゃぐちゃの顔はクレアシオンと同じくらいの年ごろに見えた。
「焼き討ちか。お前以外に生き残りは」
「……っうぁ、いな、いっ、とおもう」
そう言って少年はまた涙を零した。よく見ると彼は体じゅうに火傷を負っており、ぼろぼろになった腕には真っ黒な塊をきつく抱いていた。それは何だ、とクレアシオンが問いかけようとしたとき、少年が洟を啜った。その動きで彼の脇の隙間から黒く細長いものがだらりと揺れてこぼれた。それが炭化した幼い子どもの手だと気付いて、クレアシオンは何も言えなくなった。
クレアシオンはしばらくの間少年を眺めていた。夜の空のような色をした瞳からはぼろぼろと際限なく水分が流れ落ち、蘇らせようとするかのように腕の中の子どもに降り注いでいた。何の意味もない行為のはずなのに、それはひどく神聖な光景に見えた。
やがて、初夏の空色が陰りを帯び、彼方には一番星が光りはじめた。少年の肩の震えはやっと収まりを見せようとしていた。
「お前、これからどうするんだ」
クレアシオンが尋ねると、少年は何度か咳き込んでから「わからない」と答えた。
「……わからない、じゃないだろ。夜になったら獣も出るし、その火傷ほっといたら感染症になるぞ。お前の抱いてるガキだってそのままにしておくわけにはいかないだろう」
彼は自分の口がどうしてそんなことを言っているのかよくわからなかった。目の前にいるのは見ず知らずの少年だ。クレアシオンの旅の目的には今までもこれからも関わりが無いのだろうし、野垂れ死のうが狼の餌になろうが放っておけばいい。けれど、彼はそうすることが出来なかった。クレアシオンの中の死んでしまった子どもが起き上がって、黒い目の少年を離したくないと叫んでいた。
「墓作るくらいなら手伝ってやるから」
馬鹿みたいな申し出をすると、少年は少しだけ表情を和らげて、煤と嗚咽に痛めつけられた喉を震わせた。
「……ありがとう、勇者クレアシオン」
*
魔力で灯した幽かな明かりに縋りながら、遺体を運び、穴を掘り、それをまた埋めるという重労働を、二人の少年は無言で繰り返した。丘の上に二十六本目の歪な十字架が立ったときにはもう東の空が白み始めていたが、彼らの疲労は限界に達していた。アルバと言う名前の生き残りとクレアシオンという名前の死にぞこないは同じ毛布に身を寄せ合って横になった。狭苦しい温もりの中で、アルバがぽつりと呟いた。
「あの子まだ5つだったんだ」
あの子、というのが誰を指すのか分かっていたので、クレアシオンは相槌も打たずに聞いていた。埋葬の最中は堪えていられたのに、アルバの声はまた震えはじめていた。
「……とても優しい子だった。どうしてあんないい子が殺されなくちゃいけなかったんだろう。どうしてあの子を殺してしまうような奴が生きているんだろう。何故魔王はそんなものを生み出したの。神様はどうして何もしてくれないの」
涙が流れる音がした。耳には聞こえなかったが、それは確かにそこに響き渡った。
クレアシオンは目を瞑った。喘ぐように紡がれたアルバの言葉は、彼自身が何度も何度も繰り返し続けている問いかけそのものだった。奪われた優しいともだち。奪い取って生きながらえている父親。人殺しのクレアシオンはどちらにいるのだろうか。突然落とされた世界に道標は無く、手を引いてくれる人もいなかった。
「……神様なんていない。全部自分でやるしかないんだよ」
「自分、で」
「世界はクソだ。理不尽で血腥くて一人残らず頭がおかしい。どうしてなんて聞くだけ無駄だ。何か望みがあるのなら自分の力で分捕って叶えなくちゃいけない」
一言一言を自分に言い聞かせるようにしてクレアシオンは言った。為すべきことがあるのなら、何を踏みつけてでも進まなくてはいけない。命は使うためのものなのだから。
「……勇者さまの言葉づかいじゃないね。ひっどいや」
少し笑った気配があったので、クレアシオンはアルバを見た。少年は確かに微笑を浮かべていたが、瞳からは涙が落ち続けていた。クレアシオンは静かにアルバを抱き寄せた。アルバは彼の肩にしがみつき、声を上げて泣いた。失われた子どもを抱いていた時とは違う、苦しみを押し流すような泣き方だった。温かい涙はクレアシオンの肩を濡らし、その身に沁み込んだどす黒い血を洗い清めようとしていた。冷たくなっていた心がまた呼吸を始めるのを感じた。独りぼっちの少年たちは抱き合って泣きながら、夢のない深い眠りに落ちた。
*
翌朝はお互い酷い顔をしていた。指をさしてからかうアルバに蹴りをぶちこんで川に突き落としたら、反撃とばかりに足を掴まれ引きずり込まれてしまったため、クレアシオンも全身びしょ濡れになった。殴り合い、沈め合い、罵り合って、最後は二人で笑った。クレアシオンは久しぶりに空腹を感じた。少年たちは服を乾かしながら一切れのパンを分け合って食べた。
固焼きの黒パンを齧りながら、アルバがぽつりと呟いた。
「……もうすぐ小麦が収穫できるはずだったんだ。魔物に荒らされそうになったり酷い天気が続いたりしたけど、なんとか芽が出て、実が入り始めて。でも、全部燃やしちゃった」
「また種を蒔いて育てればいい。お前は生きてるだろ」
クレアシオンが言うと、アルバは「そうだね」と答えて曖昧に微笑んだ。
それから二人は別れた。再会の約束をするでもなく、握手を交わすでもなく、ただ無造作に手を振って、一人は歩きだし、一人はそれを見送った。
少年は魔王を見つけなくてはいけなかった。
*
「弱っちい狩られる側の奴らの中に、一つだけ時限爆弾を仕込んでおくんだよ。そいつ自身も自分がそんな物騒なもんだなんて知らなくて、みんなと同じ哀れな子羊だと思い込んでいる。だが、時限爆弾はいつか爆発するんだ。有り余る魔力と破壊衝動に突き動かされるがまま昨日までの友達が家を畑を親を村を兄弟を自分を燃やし壊し殺していく!スタンディングオベーション必至の傑作だと思わないかいシーたん?ああ、爆弾ちゃんは心優しい方がよかったな、我に返ったときの本人の絶望もなかなか素晴らしいもんだったからねえ」
いつだかそう宣っていた父親は、今は血だまりの中に倒れ伏していた。
返り血を浴びているのはクレアシオンではなく茶色の髪の少年だった。焼け落ちた集落で出会って三年ほどが経ち、クレアシオンはあれから背が伸び声も低く変わったが、アルバはあの時のままだった。成長速度の極端な偏りは高位魔族に顕著に見られる現象だ。変わっていたのは魔力を湛えた真っ赤な左目だけだった。
時限爆弾と呼ばれた少年は、クレアシオンの姿を認めると、「悪いね」とだけ言った。
「――自分の力で望みを叶えたよ。これで、世界は少しだけ平和になる」
主を失くした玉座の間に火が回った。アルバが己の故郷を焼きつくし大事な人々を皆殺しにした炎だった。
「早く逃げなよ。魔王の腹心どもが束になって掛かってきたらいくらお前でも危ないだろ」
少年は銃殺を待つ聖人のような顔で微笑んだ。
クレアと父親は死んでいて、殺したのはもう一人の友達で、殺させたのはクレアシオンだった。シオンは初めて人を殺したときと同じ激しい吐き気と絶望感に襲われた。
煌々と燃え上る炎に照らされ、アルバの髪は豊かに実った麦畑のような黄金に輝いていた。