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「……二人で色んなとこ見て回りましたよね」
「うん」
「海岸で夕陽を眺めて、森で半ば遭難しながら野宿をして。覚えてますか、壁じゅう全部水晶で出来た洞窟なんてのに立ち寄ったこと。天井に空いた穴から日が差し込むと、辺り一面に乱反射して、光の海の中に溺れてるみたいになった。あなたは燥ぎ過ぎて転んで、頭からだらだら血を流して」
「どうせお前が足を掛けたんだろ」
「バレてましたか」
「分かるよ、そのくらい」
「それに、色々美味いものもありました。変な動物とか変な魚とか、見た目は在り得ないくらいグロいのに焼いたらやたらと香ばしいやつとかいましたね。勇者さんは子ども舌だから甘いものがお気に入りだったみたいですけど」
「あんみつ好きな男がよく言う」
「……教えてましたっけ」
「そのくらい分かるんだって。ちゃんと見てれば、ちゃんと分かったはずなんだ」
「ねえ、勇者さん。何が不満なんですか」
「……不満なんてないよ」
「それなら、これでいいじゃないですか。ずっとこのままで。幸せなまま、いつまでもどこまでも続いて行けばいい」
「ボクがよくたって、お前がよくない」
「昇進なんてどうでもいいんです。別に金に困ってる訳じゃない」
「違うんだ」
「……何が」
「お前がそんな死にそうな顔してることが問題なんだよ」
***
アルバを倉庫に閉じ込めて二日目の昼だった。雨水と泥で曇り切った窓からは曖昧な色の陽光が侵入するが、光量も温度もあまりに頼りなく、目前の少年の腹の底までを照らしきることは叶わない。
アルバは何を言っているのだろう?ロスの背を冷たい汗の一滴が滑る。直線形の眼差しは決然として鋭く、紡がれ続ける言葉は奇妙なまでの真摯さすら帯びている。追い詰め閉じ込めているのは間違いなくロスである筈なのに、怯えや怒りのような、この場に相応しい感情の一切が見つけられない。
次の言葉を見つけあぐねているうち、アルバがまた口を開いた。
「この中で幸せになれるって言うなら、なんでそんなに辛そうな顔をしてるんだ。こんなのいつまでも続く訳がない、嘘っぱちの誤魔化しだよ。手を伸ばしちゃいけなかったんだ」
「……それは、」
オレのところにいてくれないっていうことですか。小さな呟きに対し、アルバは頷きを返す。
「そうですか」
耳鳴りがしていた。
閉じ込め続けなくてはいけない。逃げられないようにして、もっとしっかりと身動きを封じて、自由を奪って、意思を奪って、離れることなど考えないように。壊してしまった方がいいのかもしれない。肉体を先に整えればそのうち心も追い付くだろう。逃げられないように。逃げるなんて考えられないように。そうしなければいつか彼は自分を置いて、
「――なんで」
いつか自分を置いて行ってしまうことなんて、最初から分かっていたではないか。
タイムリミットと終点の存在を理解した上でその手を取った筈だ。ほんのひと時隣で笑っていられればいいと、そう思っていた。それがどうしてこんなことになったのだろう。間違いが起きたのはいつなのか、許されるはずのない欲を出してしまったのは。それを押さえられなくなったのは。
自分を騙すために必死だった。どんな形であろうとどんな不完全な世界であろうとただ彼が居ればそれで幸福なのだと言い聞かせていた。責務も義務も見て見ぬ振りをして、けれど、それを捨て去れるほど強くも非情にもなれないことくらい知っていた。どちらかを諦めなければどちらも選び取ることはできず、そして迷う権利などないのだと、どれほど砂を零したところで少しも薄らぐことなくはっきりと覚えている。だからこそ、ロスのアルバは巣立とうとしているのかもしれない。
「大丈夫だよ」
声がして、思考の淵に沈み込んでいたロスを無理矢理外まで引き上げた。アルバは視線を外さない。
「すぐに誰かが探しに来て、全部よくなるはずだから」
「誰が来るって言うんです。あんたなんてオレ以外の誰も探さないに決まってる」
黒い目がいっぱいに見開かれ、只管にロスを見つめていた。血の塊がこびり付いたままの唇が震える。山から下りてくる冷たい風が唸りを上げ、今にも崩れ落ちてしまいそうな小さな倉庫に揺さぶりを掛けた。隙間風の舞い上げる埃に塗れながら、少年は不器用に笑って見せた。
「お前も、探してくれるんだ」
ありがとう、と呟いたその声は、何故か泣きそうに潤んでいた。
溜息を吐くように嗚咽を逃がすように深い呼吸をして、アルバは目を瞑る。何かを待ち侘びるようにして。
がちゃり、と。
背後で扉の開く音がした。
*
「ロスーやったよ!魔物やっつけたよ!こんなにでっかいグリズリー三匹も!!ひとりで!凄くないめっちゃ凄いよね超頑張ったんだぜボク、爪でがーってやられそうなの躱して首のとこにがーってやって二匹目は砂で目つぶししてから死角に回ってばっしゅーんって!走り回ってるうちに道わかんなくなってさっきまでずっと山の中彷徨ってたんだけどなんとか下りて来れたし!」
ていうかなんでお前こんなとこいんの探したんだよ、と宣う声も、全身に擦り傷と切り傷を作って顔まで腫らしたその姿も全てが全て間違いようもなく彼だった。開け放たれた扉の向こう、ぼやける白い陽光を背負って、アルバ・フリューリングが立っていた。
「……どういうことだ」
呆然とするより無かった。首を巡らせ、視界を正面方向に戻す。先ほどまで対話を続けていた子どもはアルバの顔をしたまま変わらず椅子に腰掛けている。背後では、傷だらけの少年が返事が無いことに訝って、今にも倉庫に踏み入ろうとしている。
前と、後ろ。アルバが二人いる。
混乱と恐慌に絡め取られ身じろぎすら出来なくなったロスに、前のアルバが再び語りかける。酷く静かな、聞きようによってはまるで懺悔するような口振りで以て。
「ほら、探しに来たじゃないか」
いつの間にか縄から抜け出ていたらしい彼は、ゆっくりとした動きで立ち上がる。そうして、しゃがみ込んだままのロスの腕を取り、引き摺り上げるようにして振り返らせた。同じ顔を認めたもう一人が驚愕に身を固めるのにも構わず、その少年は言葉を続けるのだった。
「こんなことして悪かったと思ってる。……ごめんね。二度としない、許してくれって言ったって無理かもしれないけど、本当にごめん」
さらさらと、零れ落ちる音が聞こえた。ロスの目の前で世界が終わり始めていた。
朽ちかけた天井が壁が床板が、降り積もり舞いあがる塵芥の一片までもが温もりを欠いた偽物の陽光が温もりを欠いた偽物のアルバが、視界の内の全てと視界の外に広がっているはずの全てが崩れ落ちていく。願いのひと筋も許されず、濁った質量を抱きしめたそれは蒸発するように煙を立てながら天日の彼方に消え失せて、実体も力も持たない本来のか弱さだけがロスの身の内へと飲み込まれた。零れていく、崩れていく、剥がれて漏れて滑って流れて一切合財の幸福が微塵の容赦も慈悲も無く雪崩を打って単なる砂に還って逝く。やめてくれ、と叫んでしまいたかった。
肩に掛かる手だけが温かかった。
「――誰かじゃない。ボクが探す、ボクが絶対にお前を探し出して助けてみせる。約束するから」
ただ一人壊れもせずにそこに立っている勇者が、強い口調でそう告げる。彼の腰に赤い布が括られていることに、ロスはやっと気が付いた。
ざらざらとさらさらとばらばらと結合は解れ意味と順序を喪失し何もないだけがある真実がゆっくりとした足取りで彼の肩を抱いて一つになろうと微笑んで呑み込まんと口を開ける。
みどり色に透明なガラス質の砂礫が小さく小さく光りながらロスの視界を落下してゆき、それが地に付いたその時にやっと、引き伸ばされ続けた長くて優しい一瞬は終わった。
幸せでない、終点の定められた世界に落ちるその刹那、ロスは泣き出しそうな程の安堵を覚えた。