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がらんがらん、と、罅割れたみたいな鐘の音がして、ボクは今日も引き摺り上げられるように目を覚ます。
夢の中では青空の下を走り回っていたけれど、こうして瞼を開けてみれば、やっぱり目の前は灰色だ。殺風景なコンクリートの天井には泣いてる女の人の顔みたいな染みがあって、この房に押し込められて数日は怖くて仕方が無かった。十日近く経った今では流石に慣れてしまったけれど。
悪霊とか、化物とか、そういうやつらはいるのかもしれないし、いないのかもしれない。正直もうどっちだっていい。たとえ存在したところで彼らはボクを殴らないし、殴るより酷いこともしないのだろうから。だから今は、人間の方が恐ろしい。
一度目の鐘は起床の合図で、十分後に二回目が鳴る。看守が見回りに来て、囚人の人数を確認するのだ。それまでに身支度を済ませて鉄格子の後ろに立っていなければ罰則だからさっさと行かなくてはならないのだけど、悲しいかな、ボクには五分前行動を心掛けられない事情があるのだった。
この房は二人部屋で、ボクは二段ベッドの上の段が割り当てられている。刑務官の前に立つためには、当然、ベッドの側面に垂らした梯子を降りていかなくちゃならない。下段の人間に腹を晒した体勢で。
ボクと同室のマイクは、横にも縦にもやたらと大きくて、ぶつぶつのたくさんある赤ら顔をしたあまり性質の良くない男だ。ボクが梯子に足を掛けたのを察するなり、両手で掴んで思い切り揺らしたり、段と段の間からボクの鳩尾にパンチしたりと嫌がらせに余念がない。ボクが突然の揺れに対処しきれず落下した時には、こちらを指差して腹筋が攀じ切れるのではないかと思う程大笑いしたのだった。あれからもう一週間ほど経つが、硬い床に強か打ち付けた腰には未だに青痣が残っている。
喉の奥で呻る変な声に続いて、馬鹿みたいな大きな欠伸が聞こえた。マイクがやっと動き出すらしい。目覚めの良くない彼は、起こしに来た姉を殴り殺した廉で投獄されたなんて噂されていて、本人もそれを否定しない。
寝台の縁から僅かに顔を出して、下の様子を見る。縮れた黒い頭がのそのそとベッドから這い出そうとしていた。こちらもそろそろ準備しなくてはいけない。
夜のうちにベッドの中に持ち込んでおいた横縞の服を広げる。洗濯済みの囚人服。褪せた緑色の寝間着を畳み、あんまりぎしぎし音を立てないように注意しながら着替えていく。上着を脱いだら、裸の腹に散った赤やら紫やら緑やら気色悪い痣の大群が目に付いてしまい、朝から暗い気持ちを味わう羽目になった。
枕元の小物入れから櫛を取り出して髪を梳かし、ついでに前髪をさっと上げる。マイクは緩慢な動作でズボンを履き替えている。上着の前後ろを間違え、衣類籠を蹴り飛ばし、酔っぱらったケダモノみたいな奇妙な動きを繰り返した挙句、看守の足音が聞こえてくるころになってようやく檻の前に出て行った。それを見計らって、滑り落ちるようにして梯子を下り、ボクも鉄格子のところへ急ぐ。マイクの手も足も届かないような、殆ど横の壁に身をぴったりくっつけるような位置に立つと、隣からは盛大な舌打ちが聞こえてきた。
数秒もしないうちに看守が現れた。紺の制服には胸の所に二つ大きなポケットが縫い付けられていて、みんな一様にその部分を見せびらかすように大袈裟に胸を張って歩く。かつかつと硬い靴裏で床を思い切り叩き、制帽にはやけに光るバッジを着けて。その手が警棒を弄ぶのを見る度、ボクは背筋が寒くなるような思いをする。あれで脇腹だとか内股だとかの柔らかい部分を打たれるのは痛いなんてもんじゃないのだ。
マイクの前を通り過ぎた看守が、今度はボクを見る。建物の天井や床と同じ色をした、温かさの欠片も無い目を向けられると、自分が道端で風に転がされるゴミクズになったみたいな気分になる。いつものように囚人番号を呼ばれて、ボクはそれに大きな声で返事をしなくてはいけない。0345番。はい!
……何が「はい」なのだろう。ボクはそんな妙ちくりんな名前じゃないのに。どうしてずっとこんなところにいなくてはいけないんだろうか。どうして。
無関心なくせにやけにねっとりとした眼差しが、やっと外された。ボクは溜息を吐きながら、体の力を少しだけ緩める。
また辛い一日が始まる。
*
点呼の後は顔を洗って朝ごはんを食べて、それから労務作業の時間が始まる。仕事の内容は色々で、腕っ節の強い人間は土木作業とか、教養のある人は図書館の司書とか、適性によって振り分けられる。何にも出来ないボクは来てからずっと掃除をさせられている。
幅五メートルほどの通路の両脇には、数えきれないほどの牢屋が並んでいる。今の時間帯はみんな作業に出ていたり、暇な囚人は談話室に集まっていたりするので、この区画には殆ど人気が無い。
居住棟。こんなところに住まなくちゃいけないなんて考えたこともなかった。どこを見ても灰色、鉄格子、饐えた臭い。果てしなく続いていると勘違いしそうな長い廊下に一生懸命に箒をかけていると、不意に酷い孤独感に襲われることがある。
ボクはひとりだ。ひとりぼっちだった。でも、ここではひとりでいる方がずっといいのだと、頭では分かっていた。みんながボクはみんなと違うのだと信じている。ボクを嫌って、憎んで、軽蔑して、ボクをいいようにしようとしている。
座り込んだ拍子に、人には言えないようなところがじんじんと痛んだ。昨日の夜薬を塗り忘れたことに、今ごろになって気付いた。半分眠ったような顔をしている先生は、ボクが医務室の椅子に座れないでいるのを見たら、何も言わずに銀色のケースに入った軟膏をくれた。君みたいなのは必ずそうなるんだよ。どうしてそんな汚いものを見るような目を向けられるのか、ボクみたいなのってどういうのなのか、その時は意味が分からなかった。親切すぎる囚人仲間がたくさん教えてくれたから、もう一生忘れることは出来そうにないのだけれど。
二十分近くかけて掃き掃除を終えたら、今度はモップだ。持ち手の先にぼろきれが引っかかってるみたいなそれに洗剤入りの水を含ませて、えっちらおっちら床を拭く。腰が痛い。腰じゃないところも痛い。瘡蓋になっている口の端も、何度も殴られた腹も、思い切り蹴りつけられた脛も、お尻も、胸の中も、全部痛い。単純作業は頭をぼやけさせて、そういうどうしようもないものによってボクを窒息させようとする。床を拭く。ひたすら腕を動かして、牢獄の床を拭いている。
そうしたら誰かが近づいてきた。
人影は二人分。顔が見える距離になる前に、囚人でないことには気が付いた。例の胸を張った、威張り腐ったような歩き方だったから。そのうち、一方が所長で、もう一方は今朝ボクの点呼を取りに来た看守であることが分かった。
二人は何やら熱心に話しこんでいるらしく、数メートル先で惨めにモップをかけている囚人の存在を視界に入れてすらいない。何か言われるのも嫌だから、廊下の端に寄って直立不動の姿勢を取った。
彼らの進路は何故か少しずつ、ボクの方に向かって傾き始めている。きっと意図的なものでは無いのだと思うけれど、声を掛けて針路修正して貰うことなど出来ないし、今になって突然動き出したら不審に思われるかもしれない。ここにいる人たちはみんな怖い。出来るなら話もしたくない。
議論がヒートアップするうち、二人はボクのすぐ傍で立ち止まってしまった。財政とか予算とか、難しい言葉がたくさん聞こえてくる。心臓がやたらとドキドキして、早く通り過ぎてくれないかなと、そればかり考えていた。
そのうち看守の方が動いた。所長の目の前に回り込もうと、大きく円を描いて脚を運ぶ。あ、と思った時にはもう遅かった。彼は水のいっぱい入ったバケツを蹴り飛ばしてしまっていた。
「……おい!?なんだこれは!?」
すみません、ごめんなさい。壊れた機械みたいに謝ることしか出来なかった。口答えなんてボクには許されていない。所長が宥めてくれたお陰で警棒は三回だけで済んだけど(ボクを気遣ってではなくて、時間が勿体なかっただけのようだ)、せっかく掃除したところはびしょびしょだし、ついでにボクのズックも浸水してしまっていて、気分はどん底だった。
靴の替えは手元にないので、とりあえず中敷を絞った。足の裏の気持ち悪さはほんの少しだけマシになったような気がした。あとは目の前の水たまりを何とかしなくては。
モップに水を吸わせて、バケツに付いている足踏み式のローラーで絞ってという作業を何度も何度も繰り返した。水をぶちまけたと分からないくらいになったときには、バケツの中身は真っ黒に変わってしまっていた。
「水、替えないとなあ」
自分でも嫌になるくらい暗い声が出たけれど、それでもボクはバケツを持ちあげて、廊下の奥へと歩き出した。
*
掃除用具室の電灯は、いつからかは知らないがずっと切れたままだ。外に繋がる窓は無く、明かりは扉に嵌められたすりガラスから差し込む光だけ。だからいつでも薄暗い。
四畳半ほどの空間には洗剤やら箒やらバケツやらがごちゃごちゃと詰め込まれており、右手側の壁には水汲み用の蛇口と流し台が設置されている。その下を走る排水溝の金網を外し、黒ずんだ水を捨てる。バケツを濯いで、スクイージーで飛び散った水を搔き込み、またバケツに水を溜める。新しい洗剤を出そうと木箱の前に屈み、そのまま動けなくなってしまった。
鼻の奥がつんと熱くなって、目の前が潤み始める。嗚咽は何とか噛み殺したけど、涙は止めようがなかった。
初日と二日目にわんわん泣いて、弱みを見せたらどうなるか分かってからは我慢するようにしていたのに、もう駄目だった。辛い。悲しい。嫌だ。こんなとこいたくない。早く出たい。頭の中はそんな言葉ばかりぐるぐると回っている。
こんなはずじゃなかったんだ。ボクは勇者で、正義の味方でみんなの希望で、魔王をやっつけて世界を平和にすることになっていた。それなのにどうして牢屋なんかに入れられて、色んな人やものに怯えながらめそめそしてなくちゃいけないって言うんだろう?
ボクが何をしたって言えば、みんなにやにや薄笑いを浮かべながら同じことを言う。お前は小さな子に嫌らしいことをしたんだろ、って。確かに、服を脱がせてしまったのは事実だ。でもあれは純然たる事故であって、ここにいる連中が想像するような酷いことをしようとした訳じゃない。でも、何度言ったところで誰一人信じてはくれなかった。
囚人の中にも罪状によってランク分けがある。性犯罪者は最下層で、幼児相手ともなればもう不可触賤民とかそういうレベルだ。ヒエラルキーの外に置かれて、人間として扱ってもらえない。弱いものに手を出したクソ野郎は、何人も殺した殺人犯よりどす黒い悪党ということらしい。彼らはボクを目の敵にして、いいように使って、ボロ雑巾みたいに投げ捨てる。看守は知ってるくせに止めようともしない。ボクを生贄にして囚人たちのご機嫌が取れるのなら安いものなのだろうし、きっと彼ら自身もボクのことを軽蔑している。
深く息を吸い込むと、黴と下水と生乾きの雑巾の臭いがした。外が恋しい。毎日戦士にいじめられて馬鹿にされてはいたけれど、ここで経験したことに比べたらあんなのはものの数に入らない。あいつなら殴ったり蹴ったりしてもこんなひどい痣を残さないし、ナイフかロープがあったら今すぐにでも死んでしまいたいと思うような酷い悪口を言ったりもしない。何より、彼はボクを憎んでいなかった。
戦士に会いたい。そう思ったらまた涙が零れた。彼と話がしたかった。優しい言葉なんていらないから、ただ名前を呼んでほしい。ボクが人間であることをちゃんと思い出させてほしかった。
シンクを打つ音がして、バケツから水が溢れ出しているのに気付いた。蛇口を閉めなくちゃいけない。そう思って立ち上がったとき、耳が別の音を拾った。
足音。看守たちの几帳面なペースのじゃなくて、叩きつけるみたいに乱暴な。それに話し声。下品な笑声。
自分の状況を思い出して一気に背筋が寒くなった。暗い部屋にひとりきりだなんて、リンチに最適のシチュエーションじゃないか。
涙を拭いて息を殺し、すりガラスから見えないようにと木箱の影で膝を抱える。この隣はトイレなのだから、きっとそちらに用があるだけなのだろう。そうに違いない。必死に自分に言い聞かせてみても、バクバク鳴り響く心臓は一向に落ち着こうとはしない。
気配が近づいて来る。多分、三人。三は嫌な数字だ。図書室の隣でボクの服を剥いだ連中も三人だった。耳鳴りがして、その場に崩れ落ちそうになる。足音は近い。早く行け。行ってしまえ。頼むから行けってば!!
音の連なりが止まった。すぐそこで。
「お邪魔しま~す」
がちゃ、と、扉が開いて、馬鹿にしたような声が響いた。