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真っ暗ではなかった。ただぼんやりと暮れなずみ、声を上げないまでも確かにそこに在る終点に向けてオールを動かしていた。気付けばひとりであった。気付けば老いていた。気付けば何もなかった。父王の築いた平和は固く、彼に如何なる資質も苦難も求めなかった。ただ血によって王となった。妻と娘から心底愛されることはなかった。執務室への階段を上ると息が切れるようになった。眠りが浅くなった。手洗いに立つ頻度が増えた。
彼は沈みゆく小舟であった。陸地は遠く、楽しげな輝きは黒い海を照らさない。夜毎込み上げる空しさを名付けてしまうほど思い切ることは出来なかった。無為であった。掌は枯木の肌のようにかさかさと乾いていて、そのくせひと房の果実すら産み落としたことはなかった。
「大嵐が来ますよ、王様」
大臣の声は聊かの興奮を含んで震えていた。
彼は今やたった一人の同乗者だった。浸水し毀れ大海の水底に消えてゆく彼の舟に乗り込んで、時折思い出したように漕ぎ始める。舟はまともに進みもせず、赤い絨毯で飾り付けられたそこをぐるぐると廻る。
大嵐、と呟いた。言葉の端から生まれた熱が彼の朽木を燃やすようだった。大嵐。
魔王が蘇るのだ。何もなかった彼の世界に風雨と絶望が吹き荒れて、大いなる暗闇が落とされる。その中に光を灯したならば、見えぬものなど居るはずもない。大嵐はきっと、彼の舟をあの懐かしい陸地まで押し戻してくれるはずだった。
「お前の名前もわしの後ろ辺りに書いといてもらうからな!」
箔押しの歴史書を、そこに刻まれる二人分の名を思うと、彼の身を巡る熱は弥増すのだった。際限なく湧き上がる不思議な力を蹴散らすために、彼はひたすら玉座を廻る。骨が軋み体は痛む。衰えながら壊れながら、光りなき海を舟は旋回し続ける。
魔族は微笑みながらそれを眺めていた。その眼には確かな親愛が浮いており、藻屑のように揺蕩っていた。