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シオンは眠れなくなっていた。眠るのが恐ろしかった。夢の中の海にすら冷たい色のガラス瓶は流れ着き、目覚めたときには手の中に小さな手紙が握られているのだ。
差出人は既に存在しないひとだった。それは確かにアルバではあったのだが、洞窟の中でのほほんと囚人生活を謳歌しているアルバではない。
やり場の無い感情の欠片を小瓶に詰めて流す度、それによって弱い少年は小さく自分を殺し続けた。シオンの受け取る紙切れは存在そのものが過去形であり、朽ちることも腐ることもない死体の一片に相違なかった。
暮れ泥む街をぼんやりと視界の端に入れたまま、備え付けのカップにコーヒーを注いだ。白磁の陶器の内側に黒い液体がこぽこぽと満ち、白く立ち上る湯気が部屋の空気を僅かに温めた。
ぽちゃん、と、落ちる音がした。
注ぎ口から零れたガラス瓶が黒い滴を跳ね上げて、半ば浮き上がりながら、半ばは沈みながら、光りなき海を泳いでいた。シオンはしばし沈黙して、それから熱いコーヒーに指を浸した。
小さな瓶だった。高さは五センチかそこらで、土産物屋で売っているキーホルダーだと言われても信じてしまいそうなほどだった。細いコルクを指先で摘み、棘でも抜くようにして静かに外した。内側の紙片も容器のサイズに見合って小さく、握り潰されたように丸められていた。
皺を伸ばしてはみたが、何が書いてあるかは分からない。インクの跡はあるものの、途中で紙が破れており、ひとつの文字すら不完全なかたちで途切れてしまっていた。溜息を吐き、流し場にコーヒーを捨てた。新しいものカップに注ぐ。すると、またガラス瓶が落ちて来た。
己の心臓が跳ねるのが聞こえた。
引き揚げ、開栓し、コーヒーを捨て、注いだ。五杯目でデキャンタが空になり、そして、びりびりに千切り取られた紙の欠片が出揃ってしまった。
震える文字の横には、涙の跡がひとつだけ残っていた。
好きだよ、ロス。
それも確実に、アルバにとってはいらないものなのだった。
* * *
つめたい彫刻のような青年は、沈黙のままトイフェルを見詰めていた。指先から掌全体へ、頬に触れる面積を増やしたところで何らの抵抗はない。恐らくは、足を払って床に引き倒したところでそれは変わらないのだろう。彼はそれほどに疲れ果てていて、それほどにアルバに囚われていた。
指を指して笑ってやりたかったのに、トイフェルにはそれが出来なかった。腹の底から湧き上がるほの昏い潮水など直視したくはなかったが、薄められた重力の中では上手く体が動かない。
きっと、嫉妬なのだろう。身を焼く炎ではなく、ひたひたと嵩を増しながら心に立った鬆に入り込み、膿んだ痛みを生産し続けるような、どうしようもないもの。シオンの憔悴を見るにつけ、トイフェルは誤魔化しようもない惨めさを感じた。
城の暮らしは悪くない。人間関係もそれなりに良好で、流れ着いた先にしては破格の好物件なのだろうと理解はしている。
だが、彼は結局探されなかった。探されたいと思うことは許されず、探してくれる人もいなかった。
何もかもが遅かった。過去形であり、とうの昔に終わってしまった物語だった。トイフェルにとっての反実仮想は、けれど、ひとふたり分の姿をとって今この時に存在してしまったのだった。
「……どうして」
情けない程に恨みがましい声が出た。シオンがひとつ瞬きをする。
「どうしてあなたたちは、オレを探してくれなかったんですか」
「遅すぎたからだよ」
シオンにとってトイフェル・ディアボロスの始点は遅く、トイフェルにとってはアルバの誕生が遅すぎた。声を張ったところで到底届かない程度には。
それならば何故、ひとりの魔族を挟んで千年引き離されているにも関わらず、アルバとシオンは出会い得たのか。然るべき時に縁を繋げ、消えてしまった背を追い追われることが出来たのだろう。考えてすぐに答えが浮かび、そして深く後悔した。
ひとつしかないじゃないか。運命というやつに決まっている。
馬鹿馬鹿しくて呼吸が出来なくなりそうだった。自棄を起こした脳味噌が理性に反する言葉を連ねる。唇はそれに従って、どうしようもない事態に向かって嬉々と遠泳準備を始めていた。
ねえ、シオンさん。舌が震える。
「オレのところに来ませんか」
「……なんで」
「逃げ切れるかもしれませんよ。きっと、運命から一番遠いところだから」
シオンは何も言わなかった。ただひとつだけ息を吐き、受け入れるように目を瞑った。赤い瞳が覆い隠され、遺影の如き無彩色は溺殺を画策するように美しさとかなしさを増した。
この唇を、アルバは知っているのだろうか。薄く血の気の乏しいそこに、少年の温かな舌が触れる様を想像する。己では直視すら出来ない、斯くも偉大で恐ろしき勇者。この青年を介して彼に触れ、彼の執着する青年を手にすることが出来るのだと思うと、トイフェルの海には漣が生まれ始める。それは歓びによく似ていて、だからこそ絶望的だった。
くちづけの最中ですらあらゆるものが手遅れだった。そこにあったのは、遠く、届くことのない、他人の運命だけだった。
己を削る子どもと重い荷物を捨てられない青年を、トイフェル・ディアボロスは等しく哀れに思う。そしてその両方を、溺れるようにして羨んでいる。
雨は降り続いていた。けれど、この城は少しばかり海から遠い。