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ボトルメールは届き続けた。
森を歩いていると、小川のせせらぎに乗って何か輝くものが流れてくるのが見えた。それはシオンが目を止めるのを待っていたとでも言うように、視界の中央で浮き沈みを繰り返すのだった。
疲れたなあ、ロス。
子どもたちが歓声を上げながら広場を走り回っていた。その中央では噴水が涼しげな飛沫を散らしている。横を通り過ぎた瞬間に、散水管が何かをぽこんと吐き出した。
苦しいよ、ロス。
街角には昨日まで降り続いていた雨のにおいが充満していた。水たまりに映る太陽を貫くようにして、地面より更に下からガラス瓶が浮き上がる。
どこにいるの、ロス。
三日ぶりの宿だった。体に染みついた汗と埃と疲労を洗い流そうと、バスタブに湯を溜めていた。そろそろ頃合いかとバスルームの扉を開けてみれば、一体どこから湧いて出たのか、当然のような顔をして、それはそこに揺蕩っていた。
寂しいんだ、ロス。
ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。ロス。
宛先を勘違いしたままボトルメールは届き続ける。アルバの海は際限なく広く、この世全ての水脈と繋がってでもいるようだった。彼の捨てたものたちが、空白の一年間に落とされた声にならない叫びの群れが、ロスを目指して届かなかったかなしみの塊が、書かれた名の主を悟った今になって、押し寄せるように流れ着いていた。
* * *
血の海のような目を見開いたまま、シオンは動けなくなっていた。色素の薄い顔から更に血の気が引くのを見て取り、トイフェルは眉間を揉む。それから、大儀そうに見えるよう細心の注意を払いながら立ち上がって、窓際のチェストに足を向けた。
紙片はやはりアルバの魂の欠片だった。不要と宣言され、手ずから優しく捨てられて、死体として転がっていることすら許されなかった彼自身。勇者になるために殺された勇者ではないアルバ・フリューリング。
トイフェルはあの少年を心の底で恐れていたが、この断片であれば愛してやることが出来る気がした。紙片を繋ぎ合わせて作りだされる、弱くて、かわいそうな、見捨てられた、自分にすらも必要とされない子どもを脳裏に思い描く。柔らかく暖かくて、きっとかなしいにおいがするに違いない。
空想は甘やかではあったが、所詮は空想でしかなかった。魂の欠片は本体から剥離して久しく、とうに死んでしまっている。これを組み立てたところで二度と炎が灯ることはない。トイフェルはそれを知っており、だからこその空虚な哀惜なのだった。死者への愛はいつだって容易い。
記された文字列を眺め、何故か少しばかり口角が上がった。愉快からは程遠い気分であったにも関わらず。
どうして自分ではなかったのだろう、と思う。どこかで何かが少しだけずれていたとしたら、トイフェルはロスになれたのだろうか。
「……残念でした、これはオレ宛みたいですね。羨ましいですか」
「何て、書いてある」
「『助けて』と」
見た限りでは、青年の受け取った紙片の山にその言葉はないようだった。表情を消したシオンに、トイフェルは意地の悪い優越感と湿り気を帯びた後ろめたさと、それから微かな嘔気を覚える。この手紙は、そういったあまりにもどうしようもないものなのだった。
「――嘘だな」
「嘘ではないですよ」
「だが、本当のことも言っていない」
確信に満ちているくせに酷く不安気という矛盾した震えを孕む声だった。馬鹿馬鹿しいほどきれいな青年だった。駄目だという三度目の制止はついに消え去り、トイフェルは手を伸ばしてしまった。歩み寄っても、頬に触れても、振り払われることはなかった。
「どうせこんな文面だろう、」
紡がれた文章は、一言一句違わぬ正解だった。
魂の魔法使いさん。お願いだからロスを助けて。
「……何で分かるんですか」
「あの人はそういう人間だ。ほんと、気持ち悪い」
「あなたも大概ですよ。お似合いじゃないですか」
「運命みたいに?」
「ええ」
青年は小さく笑い、呟いた。だから駄目なんだ。
「あの人はオレの為なら何でもするし、何だって捨てるんだろう。やめろと言ったところで聞きやしない」
そうだろうな、とトイフェルは納得してしまった。アルバはシオンを救うためなら手段を選ばず犠牲を厭わない。彼の零したひとかけらすら残さずに掬い上げ、手渡して、それから勝手に落ちていくのだろう。ひとには馴染まぬ何者かとして。目も眩むほどの一途で優しい傲慢であり、それこそがトイフェルの抱えた怯えの根幹を成すものだった。
自己満足の極点で生きている少年はひとりして好き勝手に勇者するくせに、巣食われた方の気持ちなど少しも考えようとはしない。クレアシオンは旅を終え、ただのシオンの力では彼を殴って止めることすら儘ならないのだった。
「逃げればいいじゃないですか」
目尻を撫でると、指先に震えが伝わった。ああこのひとにも体温というものがあったのだと少しばかり感動し、執事長は唾を飲み込んだ。揺らぐ瞳は明らかに男のものであるにも関わらず、腰骨に蟠る熱を煽り立てるような色をしていた。
「……どこに逃げろと」
「次元の狭間ではどうです」
「それじゃあまだ近い。あの人の海は大きすぎるから、涙の一滴まで追って来るに違いない」
「運命みたいに」
「ああ」
戦士と勇者はお互いのことをとてもよく知っているくせに、どちらも自分が見えていない。この部屋に姿見がないのが残念で仕方なかった。沈痛な面持ちをしているくせに唇だけは嬉しげに歪めているというその酷い表情を、この白皙の青年に突き付けてやりたかった。
トイフェルには理解できないものだった。悍ましく、恐ろしく、直視し難く、吐き気を誘い、哀れで、そして、少しだけ惹かれるものだった。
魂の魔法使いは利用され消尽され捨てられるだけの存在だった。トイフェル・ディアボロスはその陰に飲み込まれ、誰の目にも触れぬまま失われていった。
両手の指では足りないほどの年月を追われ、そして逃げ続けた。
けれど、探し求められたことは一度としてなかった。