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ひとはいつだって他者によって決定される。誰かの心と口と行いで以てその生命のかたちは決まる。
ボクはきっと、空っぽで、愚かで、脆弱で、哀れな子どもだった。それではいけないのだと気付いたのは今更になってからだったけれど、まだ間に合うものだと信じたい。ボクは独りでどこまでも飛べるようにならなくてはいけない。そうしたら、そのときに、やっと。
躊躇うな。
Ⅲ.眠れる檻のガラテイア
戦士の様子がおかしいことに気付いたのは、病院を出て、再び旅立ってしばらくしてからだったと思う。もともと生粋のサドで、他人(というかボク)を痛めつけている時以外あまり表情が変わらない男ではあったのだけれど、そのあたりからどんどん仏頂面の割合が増えるようになっていた。他にもあまりよくない兆しは多くあった。ぼんやりと物思いに耽ったり、ふと目を離した隙に激しい痛みを堪えるように蹲っていたり。流石に心配になって本人に問いただしたら、「何見てんですか腐るのでやめてください」なんて辛辣な言葉をぶつけられた。ボクはあまりものを深く考える方ではないので、憎まれ口を叩けるのなら大丈夫かな、なんて思って放っておいてしまった。今考えればそれは明らかに間違った選択だったのだけれど。
オアシスの街に派遣されたのは、街の近辺で隊商を襲う砂トカゲの群れを退治するためだった。連中は夜行性で、くすんだ黄土色の固い皮膚で以て焼け付く砂に擬態しながら息を殺す。呼吸を最小限にとどめ、まるで土塊でできた人形のようにしてエネルギー消費を抑えて、やっと見えた水と人の気配に気が緩んだ商人たちの背を狙うのだ。死者こそ出ていなかったものの、鉱物や宝石を胃に溜めこみ消化に用いるというこのモンスターの性質のせいで被害は結構な額に上っていた。そこで勇者に声が掛かったというわけだ。
ボクたちは夜になるまで待って、冷えはじめた砂の海へと踏み出した。戦士とルキは、ナントカという民族衣装の一部、大きなスカーフのようなもので頭を覆っていた。砂避けだそうだ。ボクも市場で調達したのだが、着用する前に戦士にぶんどられて鳩に変えて飛ばされてしまった。種も仕掛けもない手品をしてしまうほど気に障ったものが何なのかはよく分からなかったが、そういえばボクが選んだ織物は彼が首に巻く布とよく似た色合いをしていた。
ひとり砂まみれになって立っていたボクは、赤い組紐の括りつけられたやたらと大きな鈴を手渡された。砂トカゲが仲間とのコミュニケーションに用いるのと似た音が出る魔道具で、連中を誘き寄せるのに使うらしかった。
「これアホみたいに鳴らしながら一人で先歩いてください」
「……え?ボク囮?」
「言わなきゃ分かんないんですかぷぷー」
まあ妥当な選択だったのだろう。中心というかほぼオンリーワンの戦力である戦士にやらせるわけにもいかないし、10さいようじょに囮役を押し付けるのは鬼畜の所業だ。がらんがらんと祈祷の如く鈴を振りつつ歩みを進めるボクを目指してあまり目がよろしくない爬虫類がのろのろと近寄ってくる。ルキがゲートを開け、戦士が魔物をホールインワン。魔物退治というよりは流れ作業で、ボクはほとんど刺身の上にタンポポを乗せてるような気分になっていた。
異変が起きたのはノルマを四分の三ほどまでこなした時だった。鈴が奏でる低く濁った音に砂トカゲが姿を現し、射程範囲に入ったにもかかわらず、戦士が動く気配がなかった。あれまたイジメ?そう思って振り向いたボクの目に映ったのは、糸の切れた人形のようにして砂の中へと倒れこんでゆく彼の姿だった。一気に血の気が引いた。
「ちょっ……!?」
すぐに駆け寄ろうとしたものの、背後から殺気を感じて反射的に身を躱した。ボクが爬行生物でも冷血動物でもないことに気付いたトカゲが攻撃体勢に転じたのだった。無我夢中で持っていた鈴をぶん回すと運よく敵の頭に当たり、どちらも仲良くかち割れた(余談だが、ボクはこの時実に数か月ぶりに自分の力でモンスターを倒した。勇者って何なんだろう)。
ルキに揺り動かされている戦士は、見たことも無いような真っ青な顔をして意識を失っていた。頬を叩いても、水を掛けてみても目を覚ます気配もない。ボクの背筋を何か黒っぽい、よくないものが掠めてゆくのを感じた。彼を永遠に失うという恐怖に、頭のどこかが一瞬だけ遠いところと繋がってしまったような、何ともいいがたい痛みを覚えた。
ボクたちはクエストの中断を決めた。身長の足りないボクが戦士を引きずって歩くのは結構な重労働で、宿の扉を開け、何度も足を踏み外しかけながら階段を昇り、彼をベッドに投げ出した時にはこちらが死ぬのではないかと思うくらいに息が切れていた。
濡れタオルを作っていると、身じろぐ気配と呻き声がした。
「……う、」
「戦士!起きたの大丈夫なの!?」
「うっさいです頭に響くから黙ってください永遠に」
「ご、ごめん」
身を起こし額を押さえる彼は紙のように真っ白なかおをしていた。いつも天を目指しているバリサンも萎れていて、まるで違う人のように見えた。腐り落ちようとするもののにおいに頭がくらくらしそうになった。彼の声はどきりとするほどにかすれていた。
「いまなんじですか」
「11時」
「……トカゲの残りは明日の晩片しましょう。もう寝てください」
「今夜くらいはお前についてるよ」
「余計なお世話です」
拒絶し、そして宣言するような、ひどくきっぱりとした口調だった。
「あなたはなんにもできないんですから、何もしないでください」
頭を殴りつけられたような気がした。ボクは確かに甘ったれの愚図だったけれど、ここまではっきりと言葉に示されたのは初めてだった。ボクは戦士にもう一度謝ってから自分のベッドに倒れ込み、頭まですっぽり布団に包まって目を閉じた。昼の熱気と夜の冷たさ、そして彼の言葉によって罅を入れられた心は、すぐに睡魔に取って食われた。
その日、初めてあの夢を見た。
*
ざらつく花崗岩の壁面で、風もないのに炎が二つ揺れている。ほんのりと赤く色づけされた蝋燭はところどころ劣化した真鍮の燭台に据えられていた。右にひとつ、左にひとつ。明かりと明かりの間はボクの肩幅ほどで、そこには大きな鏡がひとつ掛けられていた。
縦長の楕円形をしたそれは銀製の鏡枠で縁どられているようだった。絡み合いながら天に向かって伸びる蔦の軽やかな意匠には燭台の年経た風格とはうって変わって指紋ひとつほどの曇りもなく、そのためにどことなく奇妙な予感めいたものを投げかけているように思われた。
ボクは鏡の中を見ていた。鏡の中もボクを見ていた。磨き上げられた鏡面に頭の天辺から胸のあたりまで映し出されているのは他ならぬボクではあったのだけれど、それと同じくらい確実にボクではない人間だった。
眼と鼻と口の位置、髪の色、顎の輪郭、そういうパーツは全てボクのものだ。だが、その部分部分が少しずつ鋭くなっていたりして、ボクより二つか三つ年上に見えた。ボクは怯えながら、穏やかにこちらを見つめるボクの観察を続ける。違いはまだあった。左目だけが何故か真っ赤。そしてあろうことか、ボクが色を失くして押し黙っているというのに、眉尻を下げたそいつは勝手に喋りはじめたのだった。
「こんばんは、『なんにもできない』アルバ」
混乱のあまり叫びだす寸前だった。そうしなかったのはひとえにできなかったからだ。喉が錆びついたように音を紡がない。逃げ出したいのに縛り付けられたかのように足が上がらない。目を逸らそうとしても、橙の灯火に頬を染められたボクの顔しか見ることができない。確かにボクは「なんにもできなく」なっていた。背を嫌な汗が伝った。
「ねえ。なんでもできるようになりたくはない?」
とろりとした声で向こう側のボクは言った。表情は人好きのする感じのそれから変わった様子も無くて、ボクはその意味深な言葉から上っ面以上のものを引き出すことが出来なかった。どういうことなのだろう。ぴりりとした痛みが走った。ボクが唇を噛みしめていても構うことなく、もう一人のボクはまた口を開いた。
「君の大事な人を助けたいとは思わない」
黒い目も赤い目も凪いでいて声の調子も同じなのに、今度の言葉はどこかから苦い痛みのにおいがした。ぐちゃぐちゃの頭を持て余しながらもボクはひとつだけ気付く。このボクは失くしたのだと。あるいは、失くされたのだと。大事な人。つい先ほどまでそこにあった血の気を失った顔が、自分を支えることをやめた肉体の重みが、饐えた臭いのする空想を勝手に連れてくる。なんとかしてそれから逃れようとしていたら、いつの間にか首を縦に振ってしまっていた。
アシンメトリーな鏡のあちらでボクが笑った。夢見るように微笑む同じ顔に、ボクは思わず目を奪われた。
「交渉成立だ」
蝋燭の灯火の揺らめきがにわかに激しくなり、視界の中で明暗が激しく飛び回り拡大し収縮していった。もう一人のボクの顔が影に覆い隠される。ボクは鏡の中のボクを認識できなくなり、そしてボクはボクを見失った。未定義となった場所には何もかもを書き込み、書き換えることが許される。暗闇に沈んだくちびるは、それでも音を紡ぎ続けていた。
「君はやがてボクになり、ボクは世界の亀裂となる。そこから全てが流れ込んで、何もかもがよくなるから」
完全なくらやみが訪れると同時にボクの意識は引き戻された。
*
カーテンの隙間から眩しい陽光が零れ落ち、砂漠の鳥の尾を引く声が響き渡る。時計は七時半を指していた。
シーツをすっぽりと被っていた全身は少しばかり火照っている。だが、頭は妙にすっきりしていた。ボクはロスがまだ起きていないことを確認してからペンとインク壷と便箋を広げ、手紙を一通書いた。それを宿の主人に「急ぎで」と託し、ついでに朝食のうち一人分をオートミールに変えてもらえるよう頼んでから部屋に戻った。
目を閉じて浅い呼吸を繰り返すうつくしい顔は相変わらず蒼白で、眼の下には刻みつけられたような濃い隈があった。重病人と言われれば信じてしまいそうな有様だ。シーツの下で静かに上下する胸は、むしろそれがいつかは動かなくなるのだという恐ろしい現実を突き付けてくるようだった。
彼を助けること。なんでもできるようになること。奇妙な夢から持ち帰った二つの言葉がいつまでも反響していた。変わりたいと思った。彼を助けたいと思った。なんでもできるようになりたいと思った。
医者は何時ころ来るのだろう。手紙には大急ぎで頼むと書いたし、こちらが王命を受けた勇者であるとも明かしている。正午くらいだろうか。それから、ボクは今夜のことを考えた。トカゲ駆除のノルマはあと10体ほどだ。奴らの弱点が頭部なのも体で理解した。戦士がいなくとも、ゲートがあれば魔界に送還することはできる。必要なのは、新しい鈴と、病人を朝までぐっすり寝かせていられるような睡眠薬と、それに勇気だけ。
目覚め始めた街の喧騒が窓越しに聞こえる。話し声、足音、荷車の軋みに混じり、ボクの耳の中には何か不思議な音が響いていた。ボクの中のパーツが組み変わり書き換えられるような音。配線ミスのせいで止まっていた機関が動き出す音。
あるいは、何かにヒビが入る音。
*
「こんばんは、『役立たずの』アルバ」
「こんばんは、『馬鹿な』アルバ」
「こんばんは、『足手まといの』アルバ」
*
砂トカゲの残党の討伐成功を機に、ボクは少しずつ強くなりはじめたと思う。体を鍛えるようになったし、戦い方もスピード重視のものに変えた。一人でもゴブリン数体くらいなら倒せるようになった。なにより、敵から逃げることが少なくなった。
それでもロスはまだボクのことをあまり頼ってはくれない。相変わらず体調が悪そうで、目を離したら消えるのではないかという危なっかしさすらある。そのくせそれを隠そうとした。ボクに投げつける罵詈雑言はむしろ前より鋭さを増している感さえあった。役立たず。馬鹿。足手まとい。その言葉が刺さる度、ボクは鏡の夢を見た。
蝋燭の明かりが揺れる世界にあって、巨大な鏡には少しずつ亀裂が走り始めた。初めのうちはボクの右肩が映っているあたりが僅かに欠けている程度だったが、回数を重ねるごとに罅割れは大きくなってゆき、今ではほとんど全面を覆うまでに広がっていた。ぼろぼろの鏡は最早彼の/ボクの姿をほとんどまともに映さない。時々、もう鏡の中には誰もいないのではないかとさえ思うようになった。
鏡面は相似の宣言であって、同時にとても明確に示されたノットイコールだった。そこを走る斜線がゆっくりと叩き割られてゆくこと。境界を走るヒビを通じてあちらがこちらへと流れ込み、虚構が現実と和解し、ボクは彼になってゆく。恐怖はなかった。きっともとからボクと彼は同じものであったのだし、何より得られるものはとても大きかったから。目覚める度に、ボクの中の弱い子どもが消え失せて行くのが感じられた。
もっと強く、もっと勇敢に、もっと賢く、御伽噺に出てくる勇者のようになりたい。ならなくてはいけない。きっと、そうなりつつある。
時々、ボクはそう遠からずやってくるであろう日のことを夢見るような気分で思い描く。鏡が砕け散る日のこと。ボクがきちんと全て彼になり、彼とボクがイコールで繋がる日。ボクがボクになる日。そうしたら、ロスはボクの隣で笑ってくれるようになるだろうか。
ボクは、彼と友達になれるのだろうか。
魔界のどこかで休暇を満喫しているであろう彼を思いながら、ボクは瞼を閉じた。何でも出来るようになれば、きっと彼を蝕む病をも取り除けるに違いない。
左目が急に熱を持ったのはその時だった。脳味噌を直接揺さぶられているような凄まじい眩暈に襲われて、ボクは地面に崩れ落ちる。世界中に響き渡る静かな轟音。何もかもが一瞬で歪んで一瞬で続く。恐怖がなかったように、痛みはなかった。ボクは元からボクだったのだから。
そして、ボクのくちびるが紡ぐ音を、ボクの耳は聞いた。
「助けにきたよ、『シオン』」
聞くことは、定めることだ。