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クレアシオンが渓流に仕掛けた魚籠を引き上げると、予想を上回る重みを感じた。両掌を並べたほどの大きさの川魚たちは、青い背に水を纏い、陽光を反射しながらびくびくとのたうっていた。フォックスが昨日茱萸の木が群生しているのを見つけたと言っていたので、久しぶりに豪華な夕飯になりそうだった。竹の籠の中で生き物が跳ね回る振動がクレアシオンの腕に伝わった。
「……めろ、はな……!」
フォックスの声が聞こえた気がして、クレアシオンは振り向いた。密集して繁る背の高いブナに遮られ、彼の姿は見えない。切迫した響きに不穏なものを感じ取った少年は踵を返し、野営の準備をした木陰へと急いだ。
人影は二つあった。草臥れた黒い外套の男は見覚えのある背嚢を抱え込んでいて、橙の上着の青年は足蹴にされながらもその男に縋りつき離すまいとしていた。目の粗い麻の袋が投げ捨てられていて、大きく開いた口から零れ落ちた茱萸がそこらじゅうにころころと転がっていた。熟した果実は蠍の目のような真紅だった。
「離せって言ってるだろ!荷物返せよこのドロボー!」
「うっせえんだよクソガキが……!」
男の手が懐から取り出され、ダガーナイフの切っ先が鈍く光った。それを認めた瞬間、クレアシオンは弾かれたように走り出していた。打ち捨てられた魚籠の中で断末魔を上げることも出来ない魚が痙攣した。
足が勝手に速度を上げた。全身を物凄い勢いで血流が駆け巡った。視界が狭まり男の首しか見えなくなった。クレアシオンの脳を怒りと恐怖が焼き尽くしていった。フォックスが、彼のたった一人が奪われてしまうのではないかと思った。
「――ああああああ!!」
抜き放った剣で思い切り斬りつけた。寸前で殺気を感知した男は身を躱そうとしたが、脚をがっちりと掴んだフォックスのせいで上体を捻るに留まる。胸のあたりを横一文字に切り裂かれ、盗人は耳障りな悲鳴を上げた。彼は絶叫しながら滅茶苦茶に脚を振ってフォックスを振りほどくと、背嚢を投げ捨てて逃げ出した。追いかけて止めを刺してやりたかったが、クレアシオンの手からは勝手に剣が滑り落ちてしまった。男が一瞬見せた恐怖に塗り込められた目が、クレアシオンの魂を串刺しにしていた。背筋からぬるい汗が噴きだし、喉の奥でうまれた不規則な震えが全身に回っていった。己の身体を支えられなくなった少年は土の上に崩れ落ちた。
「クレアシオン……?」
眼が、眼が、眼が、眼が、クレアシオンを見ていた。死せる者どもの恐怖と怨嗟の眼差しは覆い隠されたとしても消えることなくそこにあった。お前が殺したのだと、忘れるなと声なき声で叫んでいた。
「クレアシオン、大丈夫」
フォックスがクレアシオンを覗き込んだ。彼は至る所に靴跡を付けられていて、口の端を切っていた。それなのに痛みに顔を顰めることもせず、彼は少年にそっと手を伸ばした。壊れ物でも扱うような指先の感触がもどかしくて、クレアシオンは青年に縋りついた。
「……ひとを、」
狐という名前の青年からはほのかな土のにおいと、そして父親のにおいがした。クレアシオンは己の目の奥に熱く鈍い痛みを感じていた。
「人を、殺した。お前と会う少し前に。寝ている時に襲われて、ふたり」
震える舌で紡がれる要領を得ない物語に時折相槌を打ちながら、フォックスは少年の背を撫でていた。子どもを慰める親のような手にはぬるい温もりがあった。クレアシオンはしゃくり上げはじめていた。
「……おそろしかったんだ」
ひとを殺してしまったことが。拭えない罪を犯してしまったことが。戻れない道へ踏み出してしまったことが。幼すぎる勇者の懺悔に、彼のたった一人の友達は静かな応えを返した。
「そっか――」
「――そういうことだったんだねシーたん」
草を踏む音が聞こえた。クレアシオンは振り返る。
親友の顔を歪めて父親が嗤っていた。
*
肩まで伸びた銀の髪を風に乱しながら、ルキメデスが立っていた。にやにやと、クレアの顔でクレアが絶対にしないような厭な笑みを浮かべながら、父親は息子の下へと一歩ずつ足を進めた。突然の事態にクレアシオンは目を見開く。驚愕に思考が固まりかけたが、自身の後ろに佇む温もりを感じて、彼は我に返った。
「フォックス!逃げろ!」
人ひとり守りながら、魔王を名乗る父親を向こうに立ち回れる自信はなかった。彼だけでも助けたいという一心でクレアシオンは叫んだ。だが、フォックスは走り去るどころか、立ち上がる気配さえなかった。
振り返ったクレアシオンは悲鳴を上げそうになった。死びとの如き虚ろな目をしたフォックスは、頭の天辺からどろりどろりと溶け始めていた。
「な……!?」
「息子よ、狐に化かされた気分はどうかな?」
堪えきれないとでも言うように、ルキメデスはけたけたと耳障りな笑声を上げた。その間にも青年の溶解は止まらない。伸ばしたクレアシオンの手に、彼を構成していた泥がねっとりと落ちかかった。クレアシオンは恐慌を起こしかけていた。
「ルキメデス、お前、一体何をした!?」
「何って言われてもねえ」
フォックスは最早ひとのかたちを留めておらず、草原に蟠る粘度の高い泥の水たまりと化していた。その中から不自然に白い何かが覗き、クレアシオンの頬を掠めて飛んでゆく。人のかたちをした紙は、ぴらりという音を立ててルキメデスの右手に収まった。
「雨の中で死体みたいなツラしてるシーたん見っけたから、どうしたのかなーと思ってゴーレム派遣しただけだよ?クレアくんの姿になると思ったら違ったりとかオレのにおいぷんぷんさせてんのに懐いてきたりとか、よく分かんねーハプニングだらけでマジで面白かったけど!やっぱり豊かな人生に大切なのは意外性だよねー」
喉の奥を引きつらせるほどけたたましく笑いながら、ルキメデスは手の中の魔術触媒をびりびりと切り裂いた。少年が友達だと信じていたものはあっけなく細切れになり、湿気を含んだ初夏の風に持ち去られた。クレアシオンは全身の力が抜け落ちていくのを感じていた。
「あ……そんな、」
全部虚構だったのだ。
クレアシオンが感じた温もりも、優しさも、赦しの欠片も、全てが全て父親が投げてよこしたつくりものだった。クレアシオンはルキメデスの掌の上で踊っていただけだった。結局のところ、どうしようもないほどに彼はひとりぼっちだった。蠍を食い殺す鼬の足音が聞こえた。耳を塞ぎたかったのに彼は手の動かし方を忘れていた。
「やっぱりお前は優しい子だよシーたん。たった二人殺しただけで得体の知れない他人に縋りついてしまうほどボロボロになるなんてさ!そんなんでいいのかい勇者さま?そんな飴細工みたいな繊細なココロを抱えてパパのこと殺せるの?我が息子ながら心配だなあ」
ルキメデスの揶揄する声もどこか遠くに聞こえた。クレアシオンの絶望を嬉々として飲み干しているであろう父親の顔を、奪い取られた親友の顔を、少年は直視することができなかった。壊れた子どもの壊れた涙腺がひとつふたつと滴を零し始めたが、彼は貼り付けたような無表情のまま地面を見つめていた。いつかの夜と同じ血の味のする吐き気がクレアシオンの食道を這い上がり始めた。
クレアシオンはひとりだった。彼の手には何もなかった。世界も、クレアも、父親も、あの日見た星屑も、何一つとして掴むことはできなかった。
***
「うーん」
魔王は少々困惑したように呟いた。
「やりすぎちゃったのか?でもこのくらいで壊れる方が悪いしなあ。まあいいや」
さよならシーたん!ルキメデスは満面の笑みを湛え、右腕に魔力を集中させた。
次の瞬間、クレアシオンは吹き飛ばされた。