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「ソルー野球しようぜー」
昼休みの教室、机に突っ伏したままのソルは動かない。小首を傾げつつレイクは彼に近づいた。机の六つ並んだ空間に他の生徒の姿はない。外は雲一つない快晴で、子どもたちは校庭に集まって明らかに人数の足りていないスポーツに勤しんでいた。
「ソル?」
「ごめん、ちょっと具合悪いんだ」
温んだ空気を伝う声は酷く沈み込んでいて、レイクは少しばかり不安になった。馬鹿なので風邪を引かずアホなので胃も痛めないことで有名なソルがこうまで弱っているところなど今まで見たこともなかった。どうしよう。保健室に連れて行った方がいいんだろうか?眉間に皺を寄せて考え込んでいると、くぐもった呟きが聞こえた。
「大したことないから。あんまり変な顔すんなよ」
「いやその体勢じゃ見えなくない?」
「見なくても分かる」
長い付き合いだからな、と彼は言った。そういうものなんだろうか、とレイクは思った。
「具合悪いって何、具体的にどうしたの?頭痛いの?」
「……目が」
「目?」
「目が痛いんだ。それだけだよ、他には何もない」
ソルが僅かに身じろいで、その拍子に机の脇に置かれた眼鏡に臂が当たった。軽い音が鼓膜をくすぐる。言われてみれば、ここ最近のソルはやけに目を気にしていたような気がする。眼鏡を外して何度も目を擦ったり瞬きを繰り返したり、後はこめかみを揉んでみたり。ゴミでも入ったのかと思っていたが、ここまで弱っているところを見るに結構重症なのかもしれない。レイクは自分の不注意を呪った。失明なんてことになったら笑い事では済まないし、もしかしたら保健室どころか病院に引き摺って行くべきではないのだろうか。
「えっと、それってどんな感じで?目の表面が痛むの、それとも奥の方?ずきずきする?」
「あのさ」
短い言葉に堰き止められて、それ以上言い募ることは叶わなかった。
「オレは大丈夫だから。だからほっといてくれ」
そう言ったきりソルは黙り込んでしまった。丸い頭部を囲い込む腕が静かに拒絶を叫んでいて、突き付けられたレイクは戸惑うしかない。今までこんな風に話もしないまま撥ねつけられたことなんて一度だって無かったのに。途切れた会話を継ぎ直す術も見つからず、結局少年はすごすごと引き下がった。
入り口に立てかけてあったバットを手に取りドアレーンを跨ぐ。レイクは一度だけ振り向いた。
「……じゃあ、ボクは行くから」
返事はなかった。
こうしてソルは、音のない教室にたった独りで取り残された。
*
目が痛い。目が痛い。目が痛い。目が痛いだけのはずなのに頭の中では耳鳴りを三百倍にしたみたいな変な音が絶え間なく鳴り響いていて水も飲んでいないのに内臓まで出てきそうな程の吐き気がして机でも壁でも関係なく殴りつけてしまいたくなるほどに体のそこかしこがわなないている。勇者アルバに会ったあの日にソルの異変は始まって、日と時間と秒を追うごとに状況は悪化し最早病状と呼ぶべき状態まで到達していた。昨日の昼レイクに虚勢を張ったあたりで誤魔化しのきく限界が来てしまった。何度も転んで大量の青痣を作りながらなんとか帰宅したソルは、そのまま頭からシーツを被って丸まった。眠ることすらできずにただ目を瞑って、芋虫のようにのたうちながらささいな痛みと馬鹿みたいな副次症状に弄ばれ続けていた。
今何時だろう、とソルは思う。目が痛む。殴り飛ばしてから蹴り飛ばしてベッドの下に入ってしまった目覚ましは11時半を指している。深夜なのか、とソルは思う。目が痛む。締め切ったカーテンの向こうに燦々と照る太陽があった。無断欠席だ。みんな心配しているだろうか、とソルは思いかけて、無理やり思考を断ち切った。何が見えるのかは分かりきっていた。一番見たくないもので、恐らくそれこそが彼を苛む苦痛の元凶なのだった。
よく分からない魔法のようなものを使えるようになって、見えるはずのないものが見えだした。ふと思い浮かべるだけで、視界の外にあるものが勝手に頭に飛び込んでくる。便利だなあと思っていられたのはほんの僅かの間だけで、すぐに世界は暗転した。
ひとの顔が見えるのだ。
大量のバツとゼロひとつのテストを受け取っていつものように虚勢を張って見せていても、背後のソチの哀れみの表情がソルの頭に突き刺さる。バンとクーバの呆れた顔が視界に映る。フォイフォイの疲れた様子が脳裏に浮かぶ。失望されるのに慣れたつもりでいたけれど、実のところ見ない振りをしていたというだけだった。見えてしまえば耐え切れなかった。
ソルはどうしようもない人間で、何一つうまくこなせない。そのくせ他人の目が気になって、頑なに目を瞑ったまま自分に当てられる物差しから逃げ続けてきた。それなのに顔が見えてしまう。可哀想だねという顔がやっぱり駄目だったねという顔がどうして出来ないんだろうという顔が。見下されるということは区別されるということだ。見捨てられるということだ。同じ舞台に立っていたはずなのに、いつの間にか彼らはソルから遠ざかってしまっていて、その距離の半ばには巨大な亀裂が生まれていた。目を逸らしている隙にどんどん広がっていったそれは、既に走り幅跳びくらいでは飛び越せないほどまで成長していた。そんなものは見たくなかった。見せられたところでどうしようもないのに。自分で自分を責めたてるので手いっぱいだというのに、そこに他人まで加わってしまえば受け止めきれるはずがなかった。そして、それが他人でなければ。レイクに見捨てられたならソルはどうなってしまうのだろう?
レイク。ソルの親友。頭が良くて勇気のある素晴らしい人間。彼がアルバから一人称を受け取って勇者への一歩を踏み出した日、ソルは地獄に突き落とされた。突き落とされるようにして、結局のところ自分自身で飛び降りた。
あの時洞窟で起きたことを知られるくらいなら死んだ方がマシだった。薄っぺらな言い訳の後ろに隠した臆病な心を見透かされ、一人で逃げ出したことが明るみに出る。それだけでも耐えがたいのに、何よりも酷いのはソルが間違いなく許されるということだった。
吐き気が一層酷くなる。背筋を温い汗が伝い、出し切ったと思った胃液がまた込み上げる。ゴミ箱を拾ってその中に吐いた。涙がぼたぼた零れて落ちた。消えてしまいたいと思った。
目が痛む。教室の中心ではレイクとリンが何かを話している。声は聞こえない。少年の唇が「お」の形に続いて「う」の形を取った。白状したくないから、それが自分の名前でなければいいと思った。気に留められていないということだから、それが自分の名前でなかったらどうしようと思った。ソルは自分がどうしたいのか分からなかった。どうすることもできなかった。
苦しくて苦しくて死んでしまいそうだった。レイクの顔が見えてしまう。彼が哀れんで馬鹿にして匙を投げ失望し、それからまるでどうでもいいことのようにソルを許す様が。お前の存在などどうしようもないほど軽いのだと言葉もなく告げるレイクの顔が、幻の視界の中に現実の彼と重なり合って刻まれた。深く深く。それがソルの脳味噌を掻き回す。
彼はいつの間にか叫びだしていた。助けて、誰か、こんなものいらない、レイク、ごめんなさい何でもするから、見たくないんだお前の顔がお前はお前だけは!
痛かった。痛い。痛い。目が痛い。目が痛い。目が痛い。目が痛い目が痛い目が痛い!
*
「なあ、本当に出てきて大丈夫なの?昨日お見舞い行ったら追い返されたんだよ。会わせられるような状態じゃないからって」
「一日寝てたら治ったよ。心配かけて悪かった」
レイクが次の言葉を発する前にフォイフォイが教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。
治ったというのは本当だった。ソルはいつの間にかベッドの中で気を失っていて、目覚めた時には思い浮かべたものが勝手に見えるという症状は治まっていた。どうやら一過性の暴走のようなものだったらしい。酷く気分がすっきりしていた。見たくないものは見えない。何も見えない。
フォイフォイが開口一番で抜き打ちテストを告げた。教室に動揺が広がる中、ソルは隣のレイクに目を向ける。どうしよう全然勉強してないと悲鳴を上げる彼はきっと眉を八の字に下げた情けない顔をしているのだろう。想像するしかなかった。ソルに見えるのはのっぺらぼうの輪郭だけだったので。
「……ソル?どうかした?」
「いや、別に」
ソルは何も言わなかった。レイクの顔が見えなくなったのは恐らくは取り返しのつかない重大事で、それ以上にソルにとっての救いだった。ソルは最低だ。ソルは酷い奴だ。ソルは駄目人間だ。その通りじゃないか。
彼は独りぼっちのまま、そこで溺れ続けるつもりでいる。自分で自分の首を絞めているうちは他人のことなど気にせずに済む。何も見えない。何も見えない。何も見えない。
もう目は痛くなかった。代わりとばかりに他のどこかがちぎれそうなほど痛んだが、耐え切れなくなるまではやせ我慢をすることにした。