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「手」
明日の出立の準備も終えて後は寝るだけという状況で、アルバの戦士は唐突にそう言った。て。一音節のその言葉が何を指し何を求めているのか理解できずにいると、彼は何故か思いつめた顔をして大股で距離を詰めてきた。そしてそのまま左手首を捻り上げられた。
「いだだだだ痛い何すんのお前!?」
「オレが手ぇ出せって言ってんだからゼロコンマ秒で反応してくださいよ愚鈍な豚め」
「分かるか!何様のつもりだよ!?」
「人間様」
「ボクだって人間だから!!」
「ごちゃごちゃとうるさいんですけど。ルキ起こしたいんですか」
その言葉にアルバは思わず口を噤んだ。安宿の壁は薄く、騒ぎ立てれば隣室のルキの元まで声が届くのは想像に難くない。次にベッドで寝られるのは早くとも5日ほどは先となるので、少女にはゆっくり休んでいてほしかった。そんな思いを知ってか知らずか、戦士は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「最初からそうやって大人しくしてればいいんですよ」
「な、何本折られて剥がされる感じ……?寧ろ何本残すの……?」
「おねだりですか流石は腐れマゾ」
「ねだってないよ!?」
「どーしましょっかねえ」
嫌な笑みを浮かべながらそう言った戦士はアルバの手をじろじろと眺める。正直生きた心地がしなかった。この男が理不尽なのはいつものことだが適応したって痛いものは痛いし折れた骨はくっつかない。機嫌を損ねるような真似をしたかと記憶を探ってみたけれど、そもそも彼はアルバと同じ理屈の上で生きていない人間なのでよく分からなかった。
そのまま妙に重たい空気が流れる。戦士は小さな声で「やっぱりな」と呟いてから、アルバをぞんざいに突き飛ばした。少年はベッドに尻もちをついた。
「ひっ……!あの、やっぱりって何が……?」
戦士は答えない。彼はアルバに背を向けて鞄をごそごそとやり、中から白く小さな道具箱のようなものを取り出した。頭に浮かぶ「拷問具」の文字。本能的に後ずさろうとしたら凄い勢いで脚を掴まれて阻止された。逃げられない!そして痛い!
「怯えすぎです。取って食いやしませんって」
「お前なら食わずに捨てるくらいはしそうだけどな!」
「どっちが」
「は?」
「オレはただあんたの手が荒れてるなあと思っただけですよ。グローブしてるからって碌に手入れもしてなかったんでしょう」
小箱の中から出てきたのはペンチでもハンマーでもなく小さな金属の板だった。よく見れば両面にざらざらとした細かな突起が付いている。
「爪やすりです。爪切りだと衝撃で罅入って割れやすくなるんで」
「何でこんな女子力高いもん持ってんの……?」
「薬局で投げ売りされてました」
隣に腰かけ、彼はまたアルバの手を握る。先ほどまでとは打って変わって真面目くさった表情で、親指から順に丁寧にやすりをかけていく。薄い板が往復する度、指の先端が擦れて微妙なくすぐったさを感じた。伸びたり欠けたりした部分が削られきれいなアーチ型が完成したら、次は人差し指へ。中指へ。かしょりかしょり、とでもいうような密やかな音だけが落ちていて、会話はなかった。戦士は赤い目に冷たい光を湛えたまま目前の作業に没頭しており、アルバは訳も分からないままにその姿に見入っていた。行為の意図するところは簡単だが意味するところがまるで不明で、問いただす言葉すら上手く見つけられない。自分を蹴って殴って罵倒して絶望させるのが三度の飯より好きな男にいきなり爪を整えられる。しかも無言無表情。ホラーだった。
「あの、あのさあ」
「何です」
「えっと、その……うん、明日晴れるかなーって。ははは……」
「晴れるんじゃないですか。夕焼け出てましたし」
ふう、と静かに息が掛けられ、削りカスが吹き飛ばされる。目の細かい面に裏返して小指まで仕上げると、彼は今度は奇妙にひしゃげた直方体を取り出し、爪の表面を磨き始めた。どうしよう。どうすればいいんだこれ。そしてどうなるんだ。アルバは必死に脱出口を探す。思考の海で溺れかけているせいで、ロスが時たま彼の表情を窺っていることすら気付かない。
「そうだその、最近道中が順調でいいよね。天気もいいし魔物もあんまり襲ってこないし」
「その分オレが頑張らないといけないんですけどね」
「ボクを甚振る話はいいから」
「旅の醍醐味じゃないですか」
「完全に雑味だわ……むしろお前本来の目的覚えてる?」
「……覚えてますよ」
小さなハサミでささくれ立った皮膚を整えた戦士は、平べったい円形の容器の蓋を開けた。内部は白い軟膏のようなもので満たされている。彼はそれをひとすくい指先に取って、アルバの手の甲に落とした。ふんわりとした花のにおいが立ち上る。ハンドクリームのようだった。
「このままちゃっちゃと魔王倒せれば御の字なんだけどな。そしたらボクもこれ以上命とか名誉とか尊厳とか危険に晒されなくても済むし!」
勤めて茶化すような口調で言ったのだけれど、目の前の男から応えは無かった。ときどき思い出したように瞬きをしながら、爪を立てることすらせずにクリームを塗り込めている。薄い油膜がアルバの手の甲に、それから掌全体に広がって、微かに照明を照り返しながら湿り気と彼の手の温度を閉じ込めてしまった。戦士は手を見ている。アルバは相変わらず身の振り方が分からず、ただひたすらに落ち着かない。滑らかな桃色に光る少女のような爪が、所々に節のある少年の指の先に付いているのは酷くアンバランスな光景だった。
指の側面を彼の親指と人差し指で挟み込まれ、痛みを感じないぎりぎりの強さで捻りを加えながら圧迫された。マッサージされているらしい。アルバの混乱は加速する。何故戦士はさっさとボクの指の骨を折らないんだろう?かなり切実な疑問は喉元までせり上がって来てはいたが、言葉にしない程度には人間としての自負があった。
「……ところでさ、旅が終わったらお前はどうするの」
戦士は答えない。小指の付け根を過ぎて彼の手の動きが止まり、アルバの左手からそっと離れていく。やっと終わったようだという安堵と少々の名残惜しさを覚えて、それからそんなものを気取られるわけにはいかないのに気付いて、アルバは何とか言葉を繋ぐ。
「ボクはまた旅をしようと思ってるんだ。魔王なんかいなくたって困ってる人はたくさんいるわけだから、誰かの助けになれればいいなあって」
もしお前が嫌じゃないなら一緒に来てくれると嬉しいんだけど、という言葉は口から出る前に掻き消えた。皮膚と肉が切り裂かれる激痛が走ったために。
火事場の馬鹿力で左手を引き抜くと掌が血塗れで、その血は指の付け根の傷からだくだくと流れ出ていて、戦士がいつの間にか取り出していた短刀には赤黒い液体がこびりついていた。状況証拠を鑑みるに何が起きたかの判断は非常に容易いものだった。
「何、何してんのお前!?なんで人の指切り落とそうとしてんの!?」
「何のために綺麗にしたと思ってるんですか。大丈夫です一本だけですから」
「大丈夫な要素が無いわ!ねえボクお前に何かした!?」
「そりゃあもう数え上げるのも馬鹿らしくなるほど色々」
何だ。どれだ。少なくとも、そんな身体欠損系の重傷を負わされるようなやらかしをした覚えはなかった。
「手切れ金ってやつですよ」
「……え?」
「そのぐらい持ってったっていいじゃないですか。どうせあなたは何もくれないんだから」
アルバは戦士を見つめる。すぐ近くにある顔は何故か疲れ果てたような表情を浮かべながらアルバを真っ直ぐ睨みつけていて、そのくせ赤い目の中には縋るような色がちらついていて、彼の言わんとすることを読み取る手助けには少しもなってはくれなかった。傷の真下を押さえて心臓より上に上げて、それでも血を垂れ流してベッドシーツを汚しながら、アルバは懸命に言葉を探した。
「い、言ってくれなきゃあげられるわけないじゃん……お前は何が欲しいの」
「言ったところであなたには無理です」
「そんなの分かんないだろ!」
深い深いため息が聞こえた。戦士はいっそ憐れむような視線をアルバに向けていた。馬鹿じゃないんですか、と顔に書いてあった。
「馬鹿じゃないんですか」
そのまま口頭で言われた。
「言おうが言うまいが絶対に不可能で、言ったとしたら更に無理になり、そもそも言う訳にはいかないんです。オレとあなたと生きとし生ける全てのものどものためにもね」
「壮大に意味不明だなぁ……」
「まあそういう訳で、代償行為で損害賠償です。あんまり痛くしないように頑張りますから」
「ひいい指もがれて痛くない方がおかしいわ!勝手に何の落とし前付ける気だよ!」
「いいから黙って指を切られろ」
傷の上に冷たい刃の感触が重なった。今度は振りほどけそうにもなく、アルバの背を冷たい汗が流れ落ちる。どうすればいい。何をどうすればこの男を説得出来て四つ指にならずに済むんだろう?頭の中でいくつかの疑問文が大運動会を始め、すぐにでも目が回りそうだった。卒倒したが最後取り返しのつかないことになるので必死に踏みとどまったのだが。戦士は相変わらず髪の毛一本ほどの冗談も混ざらないような真剣かつ深刻な顔をしていた。いつものようにこちらを嬲って悦に入っている様子は見えず、泣く寸前で止めてくれるということもなさそうだった。これはまずい。とにかく何か言わないと間違いなく剣を握れない手にされる。
「あああああのさ、っせせせんしぃ、」
見事なまでに声がひっくり返って震えていた。呼びかけられた彼は僅かに眉を顰め、アルバの手から顔の方へと視線を移した。
「その、お前が欲しがってる何かをあげられればボク指詰めなくて済むわけだよね?」
「だから無理だと」
「今は無理でもさ、い、いつかは無理じゃなくなるかもしれないじゃん?いや絶対無理じゃなくするって約束する!」
だってボクはお前の勇者だぜ信じろよ!とそこまで一息で言い切ると、不意に手首を固定する力が弱まった。戦士は虚を突かれたように目を瞠っていて、顔を顰めていなければ存外幼い印象になるということをアルバは初めて知った。よく分からないが何か琴線に触れるものがあったのかもしれない。もうひと押し!
「旅が終わろうが何年かかろうが必ずくれてやるから!そうだあれ、指切りしよう指切り、刃物じゃなくて小指使う方のやつ」
自由な右手を伸ばし、恐る恐る戦士の指を解いていく。恐れていた抵抗も鉄拳制裁もなく、拍子抜けするほどあっさりと解放された。手首には赤黒い痣が出来ていて、固まりきらない血がまたベッドに零れた。
「……戦士?」
彼は何も言わなかった。しろい顔はアルバの知らない表情を作っていて、そのせいでアルバには戦士がどんな感情を殺そうとして失敗して返り討ちにされているのか分からなかった。揺らぎ続ける赤い目は、それでもアルバに据えられていた。
たっぷり十秒の沈黙の後、耳慣れた舌打ちが聞こえた。
「はいはい分かりました、慈悲深く忍耐強い戦士はあなたの言葉を信じていつまでもいつまでも待ち続けてやりますよ。腐りかけのサバみてえなツラしやがって」
「最後の罵倒は何なの!?」
「あーもう興が削がれましたどうでもいいです。この殺人現場みたいになってる方のベッドはあなたが使ってくださいねオレ変な夢見たくないんで」
そう吐き捨てて立ち上がった戦士の腕を、今度はアルバが掴んだ。振り向いた顔には確かに動揺が浮かんでいた。
「……何です」
「指切り。しようって言ったじゃん」
抵抗がないのをいいことに、そのまま彼の小指に自分の小指を巻き付けた。こういうのは割と形式が大切なのだ。お互いのためにも。何だか知らないけどそんなに欲しいものならもっと執着すればいいのになあ、とアルバは内心だけで呟いた。
ゆーびきーりげーんまーん、まで唱えると、戦士も観念したような顔をして、その後をごくごく小さな低い声で歌った。血とハンドクリームが混ざり合ったべとべとしたものが長い指に纏わりついた。
恐らくこの男は明日の出立前にでも本当に針を千本買ってきて、これ見よがしに鞄に詰め込むのだろう。けれどアルバはそんなものを飲んでやるつもりは微塵も無かったし、むしろ目の前で死にそうになっている彼の方が先に約束を破るのではないかという気がしていた。少年の想像には何の根拠もなかったけれど、だからこそほとんど確信に近いものだった。
薬指の付け根に刻まれた傷は、じくりじくりと疼いていた。