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この腕一本では届かなかった空隙に、継ぎ足された子供のゆびさきが伸びていく。己の掌に収まり得なかったものをながいながい時間をも乗り越えて掴みとり引き寄せ、ふたりしていちどきに握りしめた。それはきっと身体の延長とでもいうようなものだったのだろう。ひとつになりどこまでも延びていくこと、長い腕、重なり合い消え失せなかった光。言い表しがたい恍惚感と安堵。けれどアルバはアルバである前に勇者であることを選んでしまっていて、それは即ち皆の前におなじだけの輝きと義務を纏って投げ出されるということだった。
幸福な錯覚を起こす権利はシオン以外にだって与えられていた。それこそ、あらゆるものに。
*
分厚い扉が重い音を立てて開き、二人は薄暗い部屋に足を踏み入れた。床も壁も天井までも剥き出しの金属で覆われたその空間は相も変わらず寒々しく、牢獄さえも上回る圧迫感を充満させていた。灰色の立方体の中心には黒くおおきな椅子がひとつと、隣に銀色の小さな丸テーブル。卓上に置かれた油の入った小皿に火を灯し、その脇に並ぶ器具のうちいくつかを熱した。かつん、かつんという靴音で淀んだ空気をかき混ぜて、アルバはそこに歩み寄っていく。踏みつけられた排水溝がちいさく鳴った。
「あーあ今週もきちゃったねー」
彼は慣れた仕草で背凭れに身を埋めた。革張りのアームチェアは薄暗い間接照明を受けてじっとりとした光沢を放っている。シオンはその正面に跪いて、アルバの脚を椅子に縛り付けていく。ぬくもりを知らないベルトが撓み、かちゃりかちゃりと金具が鳴る。足の甲から太ももの付け根までを順番に左右4本ずつの革紐で拘束したら、シオンは少しだけ姿勢を起こした。彼はいつだってタールの沼で溺れている。そっと、縋るように両手を伸ばして、今度は胴体の2本を締め、首の輪を嵌めた。次は腕。アルバは身じろぎもせず、まっくろな目で眺めていた。シオンの手はアルバの皮膚を掠める。
「……爪。ちゃんと伸びてるんですね」
「うん。自分でもびっくりだよ」
衣擦れと、吐息と、ひそやかな囁きの中で、アルバの身体はほとんど全ての自由を奪われ、革の椅子に縛り付けられていた。たったひとつの例外であるところの右手の甲を、震えもしないその指先を、なめらかな桃色にひかる人差し指の爪を、シオンは見つめる。彼は目を伏せて、そこに静かにくちづけた。アルバが瞬きをする。
「それじゃ、始めますので」
「……お願いします」
アルバは溜息を吐く。シオンはテーブルに手を伸ばす。ペンチを取ったときに、隣に並んでいたワイヤーソーとぶつかってごとりという音がした。錐が、ハンマーが、鑿が、様々な長さの釘が、所々に血錆びを帯びながら鈍く輝く。切れ味のよい道具は使わない。傷口を焼きつぶすためのプライヤは炎の中に横たわっている。
シオンは三回深呼吸して、それからアルバの爪を剥がした。
*
莫大な魔力を得たアルバは、どうしたことか一番面倒くさいものと最低な形で繋がってしまった。
檻を出た勇者は各地で暴れる魔物を退治するために派遣されることとなった。アルバは多くの場面で期待に応え、ときどき大小の生傷を負い、そして極稀に生死に関わる大怪我をした。「極稀」が二月のうちに三度起きてしまったのが運の尽きというやつだった。
腹を思い切り抉られた翌日、旱魃に喘ぐ農村地帯に恵みの雨が降り注いだ。瀕死の石竜に腕を食いちぎられかけると難破したはずの大型客船が無事に帰港し、出血毒で天国が見えたあとにはなんとどこかの内戦が終わった。察して欲しくないことに関しては異常なほどに察しのいい王様が医者だの霊能者だの魔族だのにアルバの調査を命じた結果、導かれた結論はなかなか頭のおかしいものだった。
最大多数の最大幸福というのはつまるところ足し算の考え方なのだけれど、実際に採用されていたのはどちらかというと引き算に近いものだったらしい。限られたリソースを割り振ったり取り合ったり。あちらを立てればそちらが立たずの零和ゲームを楽しくするにはどうすればいいのか。先にこちらが転べばいいのだ。マイナスを引けば全体としてはプラスになって、配るパイは増加する。
世界の延長となったアルバ・フリューリングが週一ペースで拷問されているのはそういう理由に基くものだ。
彼が不幸になればなるほど、この世のどこかが幸せになる。
*
「……あ」
アルバが意識を回復すると、シオンの表情のない顔がすぐそこにあった。金属の擦れる音がして、胸を押さえつけていたベルトが外される。ひと揃いの赤い目が霞む黒い目を物言いたげに覗き込んで、結局何も言わないまま離れていった。終わったみたいだ、と思い、右手に目を遣る。指も爪もきちんと生えそろっていて、白い骨も見えず、手首も嵌っていた。シオンはアルバに暗示か何かをかけているらしく、いかなる狂乱状態にあろうとも彼の合図を認識すると同時に回復魔術が発動し、ボロ雑巾よりもずたずたのぐちゃぐちゃのでろでろになっていた肉体は健全な青少年のもちものまで巻き戻されてしまうのだった。
単純に死に近づければいいというわけではなかった。より大きく、尾を引く苦痛がアルバの不幸を大きくし、反作用としての世界の幸せを連れてくる。だから動脈を掻っ切るのではなく爪の間への釘打ちという方法が選ばれる。
脚の拘束を外すためにシオンがしゃがみこむ。びちゃりという粘つく水音を聞いて、アルバは申し訳なさを覚えた。外傷が回復しても血やら骨やら肉片やら胃液やらはそのままその辺にまき散らされていて、視覚と嗅覚をまとめて甚振りにかかってくる。ここまで来るとサディストのストライクゾーンからも外れているようで、無言で作業を続けるシオンはいつだって卒倒寸前みたいな顔色をしている。
「シオン」
「はい」
「お前さ、なんでこんなひどい仕事続けてるの。他の人とか、なんなら機械とかに任せればいいじゃん」
シオンは手を止めて、アルバを見た。
「そんなこと聞いといて、わからないんですか」
「わかんない」
「クソ馬鹿」
シオンは舌打ちをして、最後の一本の金具を外す。アルバは完全に自由になり、シオンは離れていく。
「そっちこそなんで逃げ出さないんですか。マゾだから?」
「違うよ」
アルバにはアルバで色々としがらみがあるのだった。例えば人質を取られていたりとか。本人に教えてやるような真似はしないけれど。スプラッタ状態の床に踏み出す気にもなれずぼんやりしていると、治ったばかりの右手に温もりを感じた。アルバのゆびさきとシオンの掌が触れ合って、ひとつづきになっていた。夢見るような呟きが落ちる。多分中身は悪夢だったが。
「……あなたはきっと、銀の弾丸なんです。狼男も吸血鬼も不幸もみんな殺してしまう」
「なんかかっこいいなあ」
「鋳熔かされる前のかたちはもう覚えていないんでしょう」
この人でなしめ、と言う声は泣きそうだった。世界の一部なら確かに人ではないのだろう。アルバは少しだけおかしくなった。
銀だろうが鉛だろうが、本当に願うものを撃ちぬけなければ砂糖菓子と変わらない。下手な鉄砲なら数を撃たなければ当たりはしない。それなら。
「ねえシオン、口の中って痛点集中してるんだってさ」
「次回は歯ぁ抜けとでも言うんですか」
「うん」
「……この人でなし」
「さっきも聞いたよ、それ」
狙いを定めることもできないアルバは、ただ祈るしかなかった。乱射された銃弾のたった一発でもいいからシオンの心臓に当たりますように。拷問吏なんて頭のおかしな役目を引き受け続ける理由は分からないけれど、その不幸すら笑い飛ばせるほどの幸せが彼に訪れますように。
シオンは俯いてしまっていて、顔は見えなかった。手を握る力が少しだけ強まった。
緩慢な死に全速力で追い立てられながら、絶望的な希望目掛けて走ってゆく。ワルツなんて優雅なものを踊っている暇などなくて、お互いがお互い目掛けて決して交わらない行軍を続けている。そうして、手を繋いだままどこまでも延びていく。