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少年の手はきっと冷たい。他人の体温を受け入れなくなって久しい手だ。
父親に吹き飛ばされたその時から、誰ひとりその掌に触れてはいない。クレアシオンが迷子になったその時から。
*
見渡す限りの黒だった。
夜の闇よりも深く、喪服の黒つるばみよりもかなしい色をした世界は、何もないが故に奥行きも高さもあいまいで、まるで全てのものの終着点のように音もなくそこにあった。風は無い。少年の身体を呑み込む空気には厚みも、熱も、においも、誰かの息遣いも感じられず、彼のうつくしい輪郭を形作る肉体の存在すらも時に曖昧にさせていた。クレアシオンが己を見失わずにいられたのは、薄ぼんやりとした――まるで墓に彷徨い出でるという鬼火のような――儚く、ささやかな光があったためだった。纏わりつくような弱々しい輝きは、クレアシオン自身の内側から発せられているようだった。彼は己の手を眺めた。五本の指の先端から、節々を少しばかり醜く変形させた剣胼胝から、掌の曲線から、漏れ出ずるかのように青白い燐光が立ち上っている。けれど、その光はあまりにも幽かで、この暗闇の隅々までを、人々の孤独のかたまりを照らし出すほどの力はなかった。
クレアシオンは、自分がいつからここにいるのかを覚えていなかった。長い時間が過ぎたのは確かだ。けれど、それを区切り、数え、積み上げて、時の流れという長い河のどこを揺蕩っているのか確かめようとしたことがなかったのだ。己の意識が、存在が、心が、この果てない闇の中にあることに気付いたときから、「これから」に向かうあらゆる試みの全てが無意味で、孤独の裏面としてやっとのことで手に入れた凪いだ感情を損なってしまうものだということを、彼は知っていた。だから、身じろぐことも無く、ただそこに蹲って、なにもかもが終わるのを待っていた。
ふと、クレアシオンの視界の隅の方に、ぼうっ、と白いものが映った。ちらちらと頼りなく揺れる薄氷のようなそれは、少年自身の身体から立ち上る光と同じような色をしている。
また誰か来たのだろうな、と彼は思った。頻繁に起こることではないが、とても珍しいというわけでもない。この暗闇にはどこかに入り口があるようで、時々思い出したようにひとが現れるのだ。彼ら彼女らはクレアシオンより少し年上くらいで、みな一様に悲しげな、途方に暮れたような顔をしている。例え目が合っても何を言うわけでもなく、ある者はそこに座りこみ、ある者は目的もなくふらふらと彷徨い歩き、いつの間にか消えてなくなってしまう。まるで幽霊みたいだ。そう思ってから、クレアシオンは自分自身も同じようなものであることを思い出した。この暗闇にはどこかに入り口があるらしかったが、出口があるのかは分からなかった。
クレアシオンが眺める中で、光が大きさを増していった。あれを灯した誰かがこちらに近づいてきたということだろう。かつて見た他のものより幾分輝きが強い気がしたが、それは少年の記憶がこの何もない空間に押しつぶされて擦り切れ始めているせいかもしれなかった。青白い焔は戸惑う様子も見せず、他には何もない視界の中で成長を続けた。やがて光の中に橙のシャツが見え、カーキのハーフパンツが見え、大樹の幹の色をした髪が見え、黒い双眸が見えた。それはクレアシオンとそう歳の変わらない少年の姿をしていた。彼の表情には、隠しようのない疲れはあったが、他の人々のような、絶望であるとか悲しみであるとか、そういったものは浮かんではいなかった。珍しいな、とクレアシオンは思った。しかし、この少年の奇妙な点はそれだけには留まらなかった。きちんと焦点を結ぶ瞳にクレアシオンを映した彼は、どうしたことか微笑を浮かべ、こちらへと駆け寄ってきたのだった。
「やあ」
茶髪の少年は、親しげに、安堵したように言った。まるで長年探し求めていた友達にやっと出会えたかのような調子の声だったが、クレアシオンは彼を知らなかった。どう返せばいいのかよく分からなかったので黙っていると、彼は少し困ったように唸った。
「ねえ、起きてる?」
「……誰だお前」
「迷子」
応えがあったのがそんなに嬉しいのか、少年はにこにこと笑いながら言った。まいご、という言葉の響きにいささか困惑して口の中で繰り返す。すると少年はクレアシオンを覗き込んで、やわらかな瞳で呟いた。
「君もそうなんだろ」
そう、なのだろうか。クレアシオンの行くべきところは常に定まっていた。そこにたどり着くための道筋だって知っていたし、きちんと己の足で歩くことも出来た。それなのに、確かにクレアシオンのどこかは常に迷子だった。
「寄り添う大人のない子どもは、みんな迷子だ」
「お前もそうだっていうのか」
柔らかくて、幸福そうなつくりの少年だった。彼を見捨てる大人がいるというのは信じられなかった。喩え何かの間違いで見捨てられたとしても、すぐに誰か別の人間が寄り添ってくれるに違いない。
「ボクはもう子どもをやめてしまったから」
けれど、彼は実際にここにいた。この真っ暗で、何もなくて、絶望的で、忘れられた、存在の終着点のひとつまで流れ着いてしまっていた。
「捨てられたのか?」
「そうじゃない。見失われて、そして見失ってしまったんだ。探すためには子どものままではいけなかったから、子どものボクはここに来た」
「ここには何もない。消えていくのを待つしかない」
「君がいるじゃないか」
結局のところ、少年は自分自身に捨てられていたのだった。クレアシオンは彼を見たが、その表情には相変わらず悲壮なものがない。どうしてなのだろう。捨てられることは辛いし、悲しいし、とても苦しいことだ。捨てなくてはいけなかった理由は分からないけれど、彼の手や脚に鉄球の付いた枷を嵌め、酷く荒れたけものみちに押しやった何かが憎くはないのだろうか。少なくともクレアシオンは、己をそうしたものを憎んでいた。憎もうと努力していたのかもしれない。繋いでいた手の温もりはそのまま心を焼きつくす炎となって、永い永い暗闇の中で青白く燃え上がり続けていた。
「ここはかなしい場所だね」
少年は呟いた。彼の大きな瞳はこの場所と同じく真っ黒で、底のない闇の淵の、星の眠った夜の果ての色をしていた。それなのに、どこかに灯火の予兆のような温もりがあった。彼はクレアシオンの隣に腰を下ろした。ふたりの身体から立ち上る淡い光が重なり合う程の近い場所ではあったが、クレアシオンのそれはより蒼く、少年のそれはより白かったので、混ざり合いはせずにめいめい勝手に燃えていた。
クレアシオンはまた彼の言葉を反芻した。少年の言う通り、ここはかなしい場所だ。実のところ、彼は分かっていたのだ。見捨てられた迷子が最後にたどり着く場所。隣で手を引いてくれる大人を探して彷徨ったとしても、出会う誰ひとりとして求める人ではない。嘆いて、悲しんで、絶望して、それから諦めて消えていくのだ。引き取り手の訪れない遺失物預り所のようなものだった。一度押し込まれてしまったら、あとは廃棄されるのを待つしかない。
「違うよ」
少年の声は静かだったが、少しだけ咎めるような響きがあった。
「見捨てられた迷子、じゃない。見つけられなかった迷子の場所だ」
「……違わないだろう」
「違うんだよ。だってボクはお前を探している」
だから、見捨てられてなんていないんだ。彼は真っ直ぐにクレアシオンの目を見て言った。クレアシオンは呆然と瞬きをした。自分は彼を知らないのに、彼はどうして自分を探しているのだろう。そのために迷子の自分を暗闇に突き落としてまで、どうして。
「どうしてだろうね。友達だからかなあ。いや、友達になりたいからか」
「オレはお前の何なんだ。お前は、オレにとっての何なんだ」
「運命だよ」
灯火のような少年は迷いなく言い切って、微笑んだ。
「ボクたちは鎖のパーツのように交互に噛み合っている。君に向かってボクが手を伸ばし、ボクのためにお前は落ちて行った」
少年の二つの穏やかなくらやみに、迷子のクレアシオンが映っていた。独りぼっちの勇者は、寄り添う子どもの目によって実に千年ぶりに自分自身の姿を見出した。生きることと続くことに倦んでしまったような顔をした、泣きそうな、青白い顔の少年がいた。
「お前とボクはひとつなぎになってどこまでも伸びていった。そして、二人してばらばらに道に迷ってしまったんだ」
「最悪じゃないか」
「そんなことはない。少なくともボクは幸せだったよ」
だからお前も幸せであってほしいし、君にも笑っていて欲しいんだ。少年が瞬きすると、彼の瞼を縁どる睫毛が上下にふわりと動く。そのこげ茶色が立てる、はたり、という音が聞こえる気がした。蝶の羽ばたきにも満たないような微かな風を感じられる気がした。
「迷子をやめてしまった方のボクの手が、今ごろ必死に鎖の先端を探しているだろう。手繰り寄せ、解きほぐすために。ここで蹲る君と、ここにもたどり着けなかったお前を見つけ出すために」
「……そしたら、ここにいるお前はどうするんだ」
「君が見つけるんだよ」
クレアシオンは不安になった。自分に、或いはかつて自分であったものに、そんなことが出来るのだろうか。少年は笑ったまま、大丈夫、と言った。まだ幼さの残る声には、懐かしい歌を口ずさむような軽やかな響きがあった。
「ボクはお前を見つけ、見つけ出されたお前によって今度はボクが見出されるんだ。ボクたちはまさしく運命共同体だ」
だから、ねえ、お願いだよ。そこで初めて、少年は躊躇うような素振りを見せた。僅かに伏せられた瞼と睫毛が、彼の瞳の闇にもう一つ影を落とした。言い淀むくちびるの僅かな震えを、クレアシオンは何故かうつくしいと感じた。ひとつ大きく息を吸って、強く瞬きをして、それから覚悟を決めたように、少年は言葉を継いだ。
「少し時間が掛かるかもしれないけど、待っててくれる?」
クレアシオンの答えはとっくに決まっていた。考える時間も必要なかった。
「ひとりじゃないなら、いいよ」
「――ありがとう」
少年はまたほころぶ様に破顔してから、手袋を脱ぎ、クレアシオンに向かって裸の手を伸ばした。クレアシオンはその胼胝が出来始めた手を眺め、少年の顔を見て、それから自分の掌をそこに重ねた。暖色の存在感を裏切らず、彼はクレアシオンよりも体温が高かった。
寂しい?と少年は尋ねた。クレアシオンは何も言わず首を縦に振った。
「そっか。ボクも寂しいよ」
彼の瞳はどこか遠くを見ていて、クレアシオンは少しだけ悲しくなる。手を握る力を強めると、少年も握り返してくれた。温もりの密度が上がった気がした。
「君の寂しさとボクの寂しさは違うものだけれど、きっと重なり合う部分もあるだろう。その分だけ寂しくなくなったとしたら、幸せだとは思わない」
触れ合った指先は絶対に溶け合いはしなかったし、寄り添ったところで子供たちはどこまでも独りぼっちだった。けれど、互いを隔てる皮膚の表面を通じて、隣にいるもうひとりの熱を感じることだけは出来る。クレアシオンは初めて、自分が消えずにここにいて良かったと思った。半分は彼のために、半分は自分自身のために。
迷子たちは寄り添ったまま目を閉じた。迎えに来てくれる誰かを、ここにいる彼ではない彼を待つために。
そして、ここにいる少年の手を、本当の意味で握りしめるために。