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シオンが目を覚ましたのは柔らかで清潔なベッドの中だった。隣には茶色の頭があって、彼は言い知れない安堵を覚えた。
少年が寝言で、ロス、と呼んだので、ここでのシオンはロスになった。
微塵切りの先端から朝日が昇り、次の終端までを穏やかに照らしている。
*
とんとんとんとん、と小刻みで単調な音がカウンター式のキッチンに響く。レシピには一個と書いてあったが、買い置きの玉ねぎが小ぶりなものだったので二つ使うことにした。最寄りのスーパーは大量販売大量消費の風刺画かなにかのような店だったから、このユリ科の地下茎を育てた人間の顔など分からない。違う畑で育ったであろう野菜たちは、大きさという都合だけに従って選び出され微塵切りにされて、蛍光灯を弾き光る銀のボウルの中でいっしょくたになって重なっていた。
玉ねぎばかりではない。牛乳と卵でひたひたになったパン粉は海さえ越えてやって来ているし、ご奉仕品のシールが貼られた400グラムの合挽肉など、そもそも違う生き物の死体を混ぜ合わせたものだ。現代社会は欲望に奉仕するためなら大抵のことはしてみせる。断章取義もご都合主義もなんでもござれ。遠い国で飢える子どもらは痛ましいものだったが、ロスにとっては今日の夕飯の方が遥かに強く現実だった。
「おーハンバーグかぁ。ええなあ」
「お前の分は無いから出てけ不法侵入者」
「固いこと言わんといてよー。結構量ありそうやん」
「明日の弁当に入れるんだよ」
久々に定時で上がれたのだから、今日くらいはまともなものを作ってアルバと一緒に食卓を囲みたかった。なのに何故このタンクトップ野郎がいるのか。眉間に皺を寄せるロスを見てエルフは楽しげに笑うので、青年の機嫌はどんどん下降していく。けれど、まな板を叩く速度だけは一定だった。
穴あき包丁の側面に付着した白い四角をボウルの中に落としていく。食感が残っているくらいが好きなようなので玉ねぎは荒めに切って炒めずに使う。挽肉の解凍は十分だろうか。
「なあロスさん、あんたこのままでええの」
「……は?」
「微塵切りの人生は幸せなのかって聞いてんの」
ロスはいったん手を止めて、勝手にダイニングで寛ぐエルフを見た。少年のような顔をした化け物は相変わらずにやにやと笑っていたが、その真っ暗闇のような目には何故か一片の哀れみが浮かんでいた。
「『笑えなく』なる度、あんたは世界線を乗り越える。今まで何回世界を渡ってきた?両手の指じゃあ足りんやろ?」
「両足使っても足りないだろうな」
ロスは、クレアシオンは、シオンは、一番最初の世界の終りを思い出した。人であること止めてしまったアルバの涙ひとつぶ。掠れる声が紡いだ彼のたった一つの願い。それに従うようにして、シオンは永遠の旅人となった。少しずつ、少しずつ世界はずれていく。時代は下り、舞台は変わり、異なる物語が紡がれる。ロスが幸福を失うたびに、一つが終わり、選び出された別の世界が始まる。ある時は城の中で。またある時は旅の空の下、ある時は校舎の中で、そして今はマンションの一室で。
「それってもう呪いやん。両手も両足もふん縛られていつのどことも知れない場所に突き落とされて続けてって、正直しんどくない?助けてあげよっか?」
「余計なことすんなクソ野郎」
「えー」
「いつだろうがどこだろうが知ったことか。あの人がいればそれでいい」
言葉を途切れさせた化け物の顔を、ロスはもう見てはいなかった。ボウルの中で、玉ねぎと挽肉とパン粉と卵と牛乳と塩胡椒が絡み合い、湿った音を立てながらひとかたまりになってゆく。出自の全く異なる食材たちを手の温度を頼りに混ぜ合わせるうちに、ハンバーグの種は粘り気を増し始めた。時計は六時過ぎを指している。大会シーズンでもないから、そろそろ部活も終わっているだろう。アルバのことを考えていたのに、ダイニングからまた不快な声がした。
「……気ん持ちわるいなー。アルバさんも大概やけどあんたも相当なもんやで」
「あっそ」
「ビョーキの子とビョーキの人のバカップルとか食わせた犬が死ぬやつやん」
せーぜーお幸せにー、と続いた言葉をロスは鼻で笑った。何を今更。倫理も常識も素晴らしいものなのだろうが、ロスにとっては今ここにいるアルバの方が遥かに強く現実なのだ。断章取義もご都合主義も何でもござれ。彼の隣で生きるためなら大抵のことは問題ではなかった。喩えこの瞬間にこの世界が終ったとしても、次の世界にアルバがいるのなら悲観も狼狽もする理由がない。バラバラでいい。意味不明だろうが矛盾していようが知ったことではない。アルバとロスの本質は、その程度の断絶では損われ得ないのだから。
楽園の蛇の真似事すらできなかったエルフは不満げな声を漏らし、それから今度は「腹減ったー」と喚きはじめた。先ほどお前の分は無いと言ったのを覚えていないのか敢えて無視しているのか、帰る気配はない。無視してやろうかとも思ったが、追い出したのを逆恨みされてアルバに妙なことを吹き込まれるのも癪だ。ロスはシンクの横に引っかけたビニール袋を下から蹴り上げ、飛び出してきた白い箱をまた爪先で蹴った。キッチンを越え、ダイニングまで飛んで行ったそれの着地点をロスは見ていなかったが、ぐえぇ、というカエルの潰れたような声を聞くにどうやらエルフの顔面あたりに命中したらしい。青年は心中で小さくガッツポーズを決めた。
「いやぺヤングて……夕飯時に人んちに来てんのにペヤング……」
呪詛の如く響く言葉を聞き流し、ロスは付け合せのサラダについて考えた。冷蔵庫の中にはたくさんの世界の断片が詰まっている。どれをどう組み合わせたら、アルバは一番喜ぶのだろうか。
その時、玄関の扉が開く音が聞こえた。あらゆる微塵切りの世界線を貫いて咲く、ロスの幸せが帰ってきた音だった。