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仰向けになったまま、ぎゃんぎゃんと魔王が喚いている。あまりの往生際の悪さにロスは舌打ちを漏らした。
長いこと蒸気機関を背負っていたせいか、肩の軽さが妙に落ち着かない。紋章の浮いた左手はぼんやりと光り、永眠魔法が発動しつつあることを告げている。これでもう、ロスはおしまい。
寂しくはない。悲しくもない。ぶよんぶよんと奇妙に揺れる球体に寄りかかって座る少年の顔が見えないことだけが、少し残念だったけれど。
*
波に合わせて右に左に上に下にと穏やかながらも不規則に揺れる小船の内部は決して居心地のいい空間じゃあなかったが、オレたちはいい加減慣れてしまっていた。二人用の客室に時計の音が響く。午前九時。
「シーたん甲板出ようぜー」
「髪と服バリバリになるから却下。一人で行って来い」
「え、蜃気楼見たくないの」
「真夏にはめったに出ないんじゃなかったか」
「……マジで?」
「マジで。船着き場のおっさんの話ちゃんと聞いとけよ」
そう言ったシーたんは伸びをして、何か黒っぽい表紙の字の細かそうな本を取り出して読み始めてしまった。船酔いしないのかよ。三半規管どうなってんだスゲーな!
オレはちょっと迷ってから、一人で客室の外に出た。わずかな可能性に賭けるのも男のロマンだと思ったからだ。
*
甲板に続く階段は古い木製で、一段踏みしめるごとにきいきいと音を立てて軋んだ。
突然、視界の端を何か黒いものが掠めた。目を動かすだけじゃ追い切れない。後ろに回られた。また逃げる。何者だお前!客室の並ぶ廊下の方に行った。オレは三段ほど上っていた階段から飛び降りて駆け出した。馬鹿めそっちは行き止まり、袋の鼠とはこのことだぜ!
黒いものの正体はすぐに判明した。このことだぜも何もマジで鼠。呆気ない幕引きにオレがちょっと戸惑っていると、げっ歯類はまた姿を眩ませてしまった。どっかに巣でもあるんだろうか。
なんでこんな必死になって船の中で鼠追っかけまわしてんだろう、とちょっと自己嫌悪に陥ってから気付いた。オレもきっと、視界の端を逃げ回る少年を探しているのだろう。シーたんの話を聞いてから胃の奥の辺りに何か重いものが溜まっている感じがする。あるはずのないものがあるという違和感と不安感。そして、ちょっとばかりの疎外感。
なあシーたん、お前と一番仲よかったのってオレのはずじゃん。なんでアルバくんと二人してオレのこと置いてけぼりにしようとしてんの。
まるで友達取られてベソかくがきんちょだと思わなくもない。でも仕方ないよねオレ見た目は大人でも頭脳は子供だし!
船出前にアルバくんに宛てて書いた手紙には、いつも通りの内容の後、ちょっと悩んでから一言書き加えた。次のカテキョが終わってから二人だけで話がしたい、と。シーたんからは何らかの嫌がらせを受けるかもしれないが、まあ多分何とかなる。あいつ結局オレのこと大好きだもんね。
再び木の階段を上り扉を開け放つと、夏の日差しが目を焼き、それからたくさんの人たちの歓声が聞こえた。
*
びっくりした。滅茶苦茶びっくりした。物凄くびっくりした。ほんとにぽかーんと口開けて突っ立てるまんまのアホになってしまった。
空に、逆さの島が浮いていたのだ。
客室の入り口を塞いで棒立ちになっていると、白いひげをふっさふささせてパイプを咥えた爺さんに肩をつんつんされてしまった。謝ってからちょっと脇に避ける。この人「船長です」って全身で主張してるよカッコいいなおい。
「え、あの、あれが、蜃気楼?」
「そうさ。兄ちゃん運がいいな、この季節にあんだけ見事なファタ・モルガーナなんてオレも初めてだよ」
「ファタ・モルガーナ……」
「あの蜃気楼は妖精たちが魔法で作り出したなんて言われてるんだ。その女王の名前がモルガーナ」
若者が、老人が、子供が、歓声を上げながら欄干に身を乗り出している。中空にゆらゆらと揺れている巨大な島は少しばかり輪郭がぼやけていて、それが余計に神秘的だった。緑に覆われた岸壁が見える。異国情緒あふれる白い家並は斜面に建っているようで、砂時計から落ちかかる砂のような逆三角形を形作っていた。揺れながらもどっしりとした風格を見せつける灯台は海に突き刺さらんばかりに逆さに聳えている。未だ地平線の向こうにあるはずの島は、まさに魔法のようにオレの前に現れ出でていた。
言葉を失っているオレを見て船長は目を細めてみせた。パイプからはぽわぽわと白い輪っかが立ち上り、幻の島が浮かぶ空へと消えていった。
「ファタ・モルガーナには街がある」
「……あそこの中に人が住んでんの?」
「さあなあ。魔法使いでもなきゃ確かめられんよ」
年経た船乗りは歌うように語りだした。蜃気楼の中の不思議な街。そこは時が羽を休める止まり木だ。街にはみんなが住んでいる。会ったことのある人、二度と会えない人、そしてこれから出会う人。過去と未来が歩み寄り混ざり合い手を取り合って踊って、やがて幻の中を浮かんで消える。それがファタ・モルガーナの街。
「……すげーなあ」
オレは溜息を吐いてしまった。二度と会えない人たちの顔が幻みたいに浮かんで消えた。逆さまに浮かぶ妖精の島。オレはほんの少し前まで魔法使いだったらしいけど、今じゃ空も飛べやしない。ぼんやりと眺めていると、船長の穏やかな声が聞こえた。
「あそこまで行く必要なんてない。みいんな自分だけのファタ・モルガーナを持ってるんだ。オレも、あんたもな」
「オレも?」
「そうさ」
疑問形で言ったオレに船長はにやりと笑って、それから自分の頭をつついて見せた。
「記憶の中に」
渋い声はすとんと落ちてきて、胸の内側に巣食っていたぐちゃぐちゃしたものをあるべき形に嵌めてしまった。それこそ魔法みたいに。