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歌が聞こえる。
漣と、あとは彼と自分の息遣いしかないはずの世界に、透明な歌声が響き渡る。
「今から突拍子もないこと言うけど、あんまり痛く殴らないでね」
「殴られることはあなたの中で確定してるわけですか。被虐趣味のド変態」
そう言うと彼は少しばかり顔を顰めて見せた。
「……何とでも言えよバカ。――あのさ、」
*
世界が滅ぶとしたらどんな風だと思う?
「……は?」
何の前置きもなく突然何を言い出すんだこの馬鹿は手を止めてないで課題を片付けろ。込み上げる苛つきを拳に込めて語ったら、アルバは涙目で低く唸った。
「殴ることないだろ鬼教師!」
「すみません手術器具の持ち合わせがないのでこの場で頭部の切開とかはちょっと……」
「頭の病気じゃないから」
「そういえばもともと脳味噌ないんでしたもんね」
「あるよ!?」
シオンの思いは無事伝わったようでアルバの視線はノートに落とされる。それでも彼は諦めきれないらしく、手を動かしながらも口を閉ざしはしなかった。
「一体どうなるんだろうねー。天からの光が降り注いで人は残らず消えてなくなる。地割れが何もかも呑み込む。疫病が生けるものみな腐らせる。永い冬が世界を凍らす。……ちょっと調べただけでいろいろあってびっくりしたなあ。人間の想像力って怖いね」
「宿題もしないでんなもん調べてる勇者さんの自己管理能力も割と怖いですよ」
「してなかったんじゃなくてほんとに分かんなかったの!最近ちょっと難しすぎだと思うんだけど」
「流石に脊髄で処理できるキャパを越えましたか」
「だから脳味噌は入ってるって」
ほらできた!その言葉と共に、擦れた黒鉛と消しゴムの跡で黒ずんだ解答が突き出される。受け取ったシオンは赤ペンのキャップを外した。
確かに最近の課題の難易度は高い。語句や歴史的経緯についての正確な知識は前提の前提、論理展開や予期されるリスクへの対策、そして論述をどれほどコンパクトにまとめられるかまで全て加味した上でかなり辛めの採点をしていた。
ペン先が擦れる微かな音。アルバはシオンの手の動きを見つめている。
「……できたてほやほやの魔界は終末論の具現化みたいな状況でしたね。常にどこかしら燃えてましたから」
「炎、かあ。それでも魔王は世界を滅ぼしはしなかった」
「あの男にはなんの意図もありませんでしたよ。思いのほか頑丈だった世界が耐え延びた、それだけです」
綴りを間違った固有名詞を二つほど直し、不必要な一文に線を引いて消す。添削はそれで終わってしまった。口頭で少し説明しただけでこうまで出来を上げてくるとは馬鹿の癖になんてことしてくれるんだこの馬鹿は。
粗探しのためにもう一度最初から見直していると、何故かアルバは溜息を吐いた。
「炎は嫌だなあ。……それよりボクは水がいい」
「洪水神話ですか」
「そういう荒々しいのじゃないんだ」
――南の方の透明な海がどんどんせり上がってきて、何もかも、全部残らず呑み込んでしまうんだ。海岸線が陸地のうちがわの方に入りこんでゆき、ボクらが歩いた野原や、町や、街道は、ゆっくりと海底に変わる。今までは空だったところが海になり、澄み切っているけれど重い水の色が、この世界の風景全てに薄ぼんやりとした青と黒を混ぜ込んでしまう。重力のはたらきかたが変わる。ボクたちは二足歩行をやめてうつ伏せになり、必死に手と足を掻かなくてはどこにも行けなくなるんだよ。でも、ボクたちは、世界を呑んだ海の中で呼吸をすることが出来ない。ボクたちが吸い込める酸素がないんだ。たすけて、くるしい、と叫ぼうとしても、声を上げるために開いたくちから水が入り込んで、肺までいっぱいに満たしてしまう。肉体まで海に浸食されて、ボクはひたすら暖かな中で抱きしめられるように死んでしまうんだ。肉とか、骨とか、たましいとか、ボクを形作る軽いものは海面まで浮き上がり、押し流されてどこかに行く。ボクの中の何か重いものは水底に沈みつづけていて、たまに高いところから落ちてくる日の光に照らされ、ゆらゆらとおぼろな輪郭を揺らしてみせるだろう。隣で朽ち果てている赤煉瓦の家の隙間では、小さな魚がたくさん遊びまわっていて、打ち捨てられたボクの残骸を見つけると、ときどききれいな声で歌を歌ってくれる。
「何か悪いものでも食べたんですかあんた」
シオンは思わず本気で心配した。
アルバから未だかつてないほどのメルヘンとメンヘルの匂いがした。何があった突っ込み機能は無事なのかどの病院に連れて行けばいい。彼が戦慄していると、視線から真剣さを感じ取ったらしいアルバが「そんなに気にしないでよ」と苦笑してみせた。
「なんか夢見が悪くてさ。宿題のせいで疲れてるのかもねー」
「一丁前に責任転嫁ですかこのレウコクロリディウム野郎が。回数こなしてきてるんだから難しくなって当然でしょう」
点数を書き入れてノートを突き返す。受け取った勇者は見事に固まった。
「ちょ、これだけ書けたのに9点!?シオンさん酷くない!?」
「……赤ペンのインクが切れました。不満だったら自分で書き入れといてください」
「え、」
「『9』の後にゼロひとつ」
一瞬の後に意味を理解してアルバが歓声を上げた。――きゅうじってん!今までで最高じゃん!やった!
能天気に笑う顔は二人で旅していた頃と同じだった。裏表のない表情がクレアシオンをロスに作り替え、彼が伸べた手によってシオンは息を吹き返した。背が伸びようが魔力を得ようが幽閉されようが変わることなく、シオンはアルバが好きだった。
シオンが黙って眺めていると、視線に気づいたアルバも彼を見やる。目が合った。
恥ずかしくなったので肘鉄を入れた。
「響くからきゃんきゃん喚かないでもらえます」
「ぐ……ちょっとくらいいいじゃん……」
「この程度で大喜びされてもねえ。来月は卒業試験ですよ」
「え?」
くろい目。シオンが好きな彼の目が瞠られる。
「座学は次でおしまい。後は実地でやるのが一番効率的でしょうね」
「実地、って、」
「魂の故郷にさよならですよ勇者さん。ハンカチ要ります?」
「牢屋出れるの!?……ほんとに?」
信じられない、というようにアルバが尋ねた。声には興奮と猜疑が絡んでいる。どうやら、意地の悪い家庭教師がまた自分をからかっているのではないかと疑っているらしかった。
シオンはアルバの鼻を摘みあげる。唸っているのもなんか可愛くて腹立たしかった。
「嘘じゃありません。理論と実技と、教えたことをちゃんと覚えてれば世界に影響出さない程度には魔力が制御できるようになってるはずです」
赤くなった鼻先もそのまま、アルバは呆然と瞬きしていた。小さく震えながら己に言い聞かすように喜びの言葉を呟いているのは、恐らく溢れ出た感情と思考がキャパシティを超えてしまったためだろう。それでも表情がだんだんと満面の笑みにまで変わっていくのを見て、シオンの中には何故か安堵が湧きあがった。檻の中に順応しきってしまったように見えて、外に出たい気持ちはあったらしい。彼もきちんと人間だったのだ。
感情を乗せないよう苦慮しながら、でもまあ、と家庭教師は言葉を続ける。
「目付役は当分必要でしょうね。あなたの暴走を止められるような魔力を持った誰かが」
「あ、ああうん、そっか!誰に頼めばいいかな。ルキ……はちょっと頼りないし」
ヤヌア、ツヴァイ、トイフェル……アルバは知っている魔族の名を挙げては自分でそれを打ち消していく。一人ごとに眉間の皴が深まるのを感じつつもシオンは口を閉ざし続けた。が、胡散臭さ爆裂のタンクトップ野郎まで候補に出されたときに流石に我慢の限界が来てしまった。
「……視神経腐ってんですかクソ虫」
「へ?……うおお顔怖っ!夢に出そうだからやめて!」
「いくらスッカラカンでも頭の下げ方ぐらい知ってると思ってたんですけど。買い被りでしたね苦しんで死ね」
「隠そうともしない殺意が痛いよ!?」
「なんでオレに頼まないんです」
あんたがちんたらやってる間に自分たちの旅は一段落ついたしクレアは花火職人に弟子入りして城下町に住み込んでしまった。次元の行き来なんてクソめんどくさいことまでして年単位で面倒見てやった家庭教師に礼の一つも言わないまま第二の人生模索し始めるなど何が勇者だアルティメット自己中野郎の間違いだろうが、転移魔法教えてやったんだからどこにいたって魔物退治だろうと人助けだろうとできるのだ気分を害した責任を取るためにもオレに付き添って奉仕し続けろゴミ山が。
ほぼノンブレスで捲し立てられアルバは目を白黒させている。それでも数拍の後には翻訳が完了したらしく、おずおずと口を開いた。
「ええと、もしかして、シオンが一緒に居てくれるってこと?」
「あなたの耳にそう聞こえたならそうなんでしょうよ」
「……いいの?」
よくないわけがないだろう。彼に救い上げられたあのときだってシオンは手を差し出していた。それを取らなかったのはアルバの方だったではないか。
無言で睨みつけていると、アルバは困惑を浮かべ、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
水底で輝く真珠のような笑みだった。
次の月を待たず、アルバの願いは叶えられた。