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「ほうらたんとお食べ」
「んごごごごぼおぁばはがっ」
軍手で鷲掴みにしたものを口の中に突っ込むと、アルバは酷い鳴き声を上げて悶絶した。異物を吐き出すときに垣間見えた舌は真っ黒だった。
「うっわ汚っ」
「……ちょ、何コレ石炭!? ボク機関車の類じゃないよ!?」
「人を呼びつけといて選り好みとはいい御身分ですね。腹持ちのいいものをというオレの思いやりを無にし腐って」
「確かに腹には溜まるだろうなあ化石燃料は! ていうか呼んだ覚えもないんだけど」
「は? これどう見てもあなたの筆跡じゃないですか」
シオンが取り出した紙切れを検分しつつ、アルバはあーだのうーだのと母音で呻き始めた。眉間に皴を寄せた表情は何やら考え込んでいるようで、語尾のそこかしこには疑問符が踊っている。シオンは少々違和感を覚えた。
紙片を取り出したら、いつの間にかガラス瓶とコルクは消えていた。微かに漂う魔力の残滓はやはり間違いなくアルバのものであったし、宛先指定のボトルメールなどという奇妙なものと併せて見ても彼の仕業としか考えられなかった。だというのに、どうしてこうまで奇妙な反応を返すのか。
アルバは何故かランプの灯火に手紙を翳して眺めていて、見えない文字でも読み取ろうとしているような風情だった。そして唐突に、ああそうだ、と声を上げた。
「確かにこれボクのだけど、ずーっと前のやつだ。しかも実際に海に流したわけじゃない」
言っていることの意味がよく分からず、黙って先を催促する。勇者は少しばかり気まずそうな口振りで続けた。
「お前を探してたころの話だよ。昔のボクってさ、ほら、ヘタレでダメダメだったから。すぐへこたれて弱音を吐きたくなっちゃったりしたんだけど、まさかルキに慰めてもらうわけにもいかないだろ。だからそういういらないものを頭の中で瓶詰めにして、海に流して捨ててたんだ」
「……全部空想の中の出来事、ってことですか」
「うん。けっこう不思議なんだけど、流したら物凄くすっきりしちゃって何を詰めたかすら覚えてないんだよ。だから今の今まで忘れてた」
しかし実体化なんてびっくりしたなあこれも魔力のせいなのかなあ、恥ずかしいからちゃんと捨ててね。そう言って、アルバは笑っていた。
* * *
「これは魂です」
正確には、その欠片。この紙片のひとつひとつが削り取られた魂の微小な一片なのだった。アルバという人間を、人格を、存在を形作っていたものが、有り余る魔力によって輪郭を与えられたまま木箱の内部で物言わぬ山を成していた。
「……そんなことが」
「自分のものなら、出来なくもないでしょうね。よっぽどの根性と執念があればぎりぎり手が届くくらいの場所にありますから」
問題は、その総量だった。部分と部分と部分の和は想定される全体を超えて遥かに大きく、足し合わせたならひとり分の魂よりも重くなるだろう。二十一グラムなんて可愛いものではなかった。
山の片隅には「もう無理だ」の文字が引っかかっていた。恐らくあの勇者は、自分の中に弱音が生まれる度にいちいちがりがりと削り取っていたに違いない。狂気に近い真摯さで以て、瘡蓋を剥いで傷口を指で掻き回すように。
トイフェルの胸の中に海が生まれた。腐った色をしたそれはどうやら満ち潮の周期に入ってしまったようで、ずぶずぶと、じわじわと体積を増している。
そうか、と呟く青年は実のところ答えを予測していたらしく、驚いた様子は見られなかった。代わりに、酷く苦しそうだった。
「いらないものなんだとさ。それ全部」
トイフェルは改めて木箱を眺めた。飲み込んで消化すべき感情たちを、アルバ・フリューリングは残らず捨てた。歩けない脚はいらないからと斬り落とし、補うように生えた羽すら否定して、どこからか取ってきた特別製の鰓と鰭で中空を滑るようにして泳いで行く。人魚姫も真っ青だ。だからあの少年は歪なのだと、執事長は目を瞑る。
「それで、どうしてあなたの元に送ったんでしょうね。今更になって」
「送ってはいない。宛先不明で流れ着いたってだけだろう」
「……は?」
「あの人は元々、その紙切れを瓶詰めにしてどこか遠いところに捨てるつもりだったんだとさ。だが、どこか遠いところというのは要するにどこにもない場所のことだから、配達なんて出来やしない。だから本文中の名前が勝手に宛名にされて、オレの所に流れてきた」
嘗ての伝説の勇者が、今は途方に暮れた子どものような目をしていた。かわいそうだなあと思ってしまった。身の内のどこかに何か柔らかくてよくないものが萌しそうになり、トイフェルは慌てて頭を振った。駄目だ。これはひとのもので、これのためにひとすら辞めかけているなにかのものであって、深入りしても碌なことが無いのは目に見えている。
「水がある限りどこまでも流れ着く。どこまでも追ってきて、必ずオレを探し出してしまう」
「本人に言えば何とかなるんじゃないですか」
「言わない」
「どうして。自分の無意識の産物とはいえ、アルバさんほどの魔力があればコントロールは可能でしょう」
「言ったらあの人はまた捨てるに決まってる。オレに届いたものも、まだどこかの海を漂ってるガラス瓶も全部纏めて、今度は灰すら残さずに焼いてしまうだろうから」
暗い淵で溺れているのがありありと見えた。それならお前はどうしたいんだ、とは尋ねない。それが分からなくて、どうしようもないからこそ、彼はトイフェルの元を訪れたのだろうから。青年は項垂れて立っている。高い襟の奥で、おとがいの白さがやけに目に付いた。駄目だ。もう一度言い聞かせるが、上手く頭に響かない。
「……重くはありませんか」
うつくしい青年だった。作為染みた不吉な色と人形のような貌を与えられているくせに、彼を所有する何がしかよりも遥かにきちんと人間だった。重いよ、と小さな呟きが落ちた。
「物凄く重い。今にも腕が折れそうだ」
「捨ててしまえばいいのに」
「出来るわけがないだろう」
「好きなんですか」
「そんな言葉では少しも足りない」
愛の告白のようでいて、罪の告解のようだった。トイフェルは神父の類ではなく、寧ろその反対側に位置するものであったので、赦してやることは出来なかった。たとえ出来たとしても、赦してやるつもりもなかった。哀れみと一体になった焦げ臭いものが、何百年も前に殺しきったはずの扱い難い感情がじわじわと息を吹き返そうとしているのだった。
窓の外に立ち込める暗雲から遂に水滴が滴り、開け放した窓から侵入して、一番近くに転がっていた古いチェストの表面を濡らす。
こつん、と音がした。
見れば、ガラス瓶がひとつ落ちていた。