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安堵に筋肉の緊張が解けてしまったのか、体はぴくりとも動かない。血はだくだくと流れていく。少しずつ体温が下がり鼓動が遠ざかるのを感じるが、アルバの身体はこの程度ではくたばることはできない。意識を失ったあたりで勝手に全快魔法が発動し、目覚めたときにはすっかり元通りだろう。ああ、つくづくバケモノだなあ。
第二話:デビルメイクライ
凝縮された魔力は臨界点を迎えた極小の太陽の如くに激しく輝き、蹂躙を予告する。瞬間的に反魔力結界を展開。室内を埋め尽くすはずだった爆炎と轟音は球形の障壁の中に押しとどめられた。山羊の頭を持つ亜人は醜怪な顔に焦燥を浮かべるが、上級魔法を展開した反動に襲われ満足に動くことさえ出来ない。その身に纏ったぼろ切れごとアルバの剣が両断した。
「勇者さん、後ろ」
振り返る動作で上段回し蹴りを放つ。首筋を狙って飛びかかった魔狼は顎に重い一撃を食らい、古ぼけた壁に叩きつけられた。二体の魔物の体が光に変わり、僅かな時間差をつけて魔界へと送還される。窓ガラスを割って飛びかかってきた上半身ならぬ生首は風の刃で八つ裂きにした。緑色の血液が飛び散り、それを見た黒髪赤目の戦士は非常に嫌そうな顔をした。
「……畜生キリがない!ねえロス召喚陣ほんとに今回も校内にあんの!?」
「あなたの目が節穴だから見つかるものも見つからないんだなあ」
「詠嘆しなくていいから何かアイディアよこせって!」
「諦めたらそこで試合終了ですよ。ほらほら新手が来ましからよそ見しない」
ロスの言葉が終わらないうちにアルバは思い切り後ろに跳んだ。
めきぃっ!
一瞬前まで立っていた場所に間欠泉が噴き上がった。いや、水ではない。ささくれ立つ床板を勢いよく貫いたのは、溝鼠の内臓のようなおぞましい色をした触手だった。少女の腕程の太さのそれは異臭を放つ粘液をぬじゅりぬじゅりと滴らせつつ生理的嫌悪感を煽る動きで痙攣している。息つく暇もなく二本目三本目が生え、アルバを串刺しにしようと襲い掛かる。跳躍。壁を蹴って方向転換。古いフローリングが割れる音。木片が頬を掠める。ぎちゃりめぎょりぐりゃり。泡立つ音。五本目が床下から突き上がる。どこに感覚器官があるのか、触手は凄まじい速度で少年の動きを追いながら蠢いていた。四方八方に粘液が飛散し机に椅子に壁面に付着する。しゅううぅう。発泡、白煙、刺激臭。赤黒い液体が叩きつけられたあたりを中心に、虫眼鏡で焼かれる紙のようにして融けていく黒板。酸の飛沫の一滴がアルバの左肩をかすめ、熱と煙を発しながらワイシャツをノースリーブに変えてしまった。引き攣る痛みが二の腕に走り、少年は顔を顰めた。ロスはにやにや笑っている。
「ぐちゃぐちゃのぬるぬるのねとねとですねおめでとうございます」
「喜ぶ要素皆無だよ!?」
「しかも相手は生粋の魔法生物ですか。これまたクソ面倒くさい」
結論に法則が奉仕すること。概念に実体が従属すること。魔法は人間的感性の領域内において極端に目的論的であって、それ故に魔力は人間的感性の及ぶ全てを可能とする力となる。例えば空を飛びたいという思いに対し流体力学と重力子が頭を垂れる。例えば炎を起こすためにクラウジウスの原理が道を譲る。例えば、「あらゆるものを溶かす」という性質以外何ひとつ規定されない液体が存在しうる。
けれど、魔法といえども無敵というわけにはいかない。この時代には別の物差しが存在している。人間的感性の範疇で何もかも融かすのなら、冷たいパースペクティヴからその盲点を教えてやればよい。血の気のない箱の中でナイーヴな想像力を窒息死させること。アルバは半壊した椅子を全力で蹴った。右斜め上方から急降下してきた触手に激突し力のベクトルは合成され轟音が響き一本の触手がしばらく動けなくなる。左目に灼ける激痛。衝突の際に飛び散った粘液が目に入ってしまったらしい。解毒呪文の応用ですぐに腐食を止める。視界は白濁していたが、戦闘続行は可能だった。脇腹を抉ろうとしてきた別の一本を躱しアルバは詠唱を始める。また跳躍。埃が舞い上がる。少年はみっつ離れた机の上にふわりと着地した。
「あらゆるものを溶かす」ものを名付け、その名によって縛り付ける。無限に見える空白に限界を設定する。科学という檻がにやりと笑って二度と戻れぬ入り口を開く。液体の化学式を規定し結論と概念を法則と実体によって屈服させる。「あらゆる」を「たくさん」に力技で読み替え、その性質に合致するものを己の知識から引っ張り出してきて眼前のそれに貼り付ける。呪術で以て行われるインスタントな脱呪術化。
アルバを中心として広がる魔方陣が青白く輝き、詠唱の完了を告げた。その瞬間から教室内の世界が組み換えられていく。
――定義魔法。
汝の名は王水、濃硝酸と濃塩酸の1:3混合物。「たくさんのものを溶かす」と雖もその権能は無限定ではない。次いで、アルバは自分自身を組み換えた。ぱきり。あまりに軽い音。
喉元を狙って奔る触手を透明な右手が鷲掴みにした。王水によって腐食されることのないガラスの腕はそのまま勢いよく後方へと引かれ、床板を突き破って魔物の本体が引きずり出される。サッカーボール大の球形は五本の触手とともに大量の毒虫じみた繊毛を生やしていて、縦長の瞳孔を持つ単眼をぎょろりぎょろりと蠢かせていた。
勇者の左手で魔力の剣が閃き、怪物を両断した。
崩壊した教卓の下で10番目の何かがほの青く輝き、一瞬で消えた。