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地面と仲良くしていると、ひとりでに涙が漏れてきた。しばらく止まっていたからもう大丈夫かと思っていたが、そう簡単にはいかないらしい。音もなく溢れ続けるしょっぱい水は頼んでもいないのに嗚咽と悲しみまで連れてくる。アルバはもういない友達を思ってまた泣いた。茶色の髪は血と泥に塗れていて、赤と黒の瞳は虚ろに沈んでいた。
第三話:ふわふわ時間
軋むドアレールの聞きなれた音。旧1-Bの窓際にはもうお馴染みとなってしまった灰色の頭があった。弁当箱を携えたシオンはアルバに歩み寄っていく。
「またぼっち飯ですか、勇者さん」
「うるせーよロス」
「は?」
知らない名前で呼ばれ、シオンは思わず疑問の声を上げた。
「誰ですか、ロスって」
「あー……ごめん間違えた」
「誰なんですか」
「従兄弟だよ。ボクの面倒見てくれてる叔父さんの子ども」
「……へえ」
シオンは引き下がることにした。教室は相変わらず埃っぽく、窓ガラス越しに降り注ぐ真昼の陽光で塵が踊って見えた。ぼろっちい椅子は少し動かすだけできいきいと喚く。一つの机を挟んで、17歳の少年たちは向かい合って座った。シオンは頬杖をついた。背を丸めるということはそれだけ前のめりになるということであって、まだ封の開いていないアルバの豆乳は影に飲みこまれた。
「左目どうしたんですか」
「え、充血してたりする?」
「いえ。充血というか、瞳がちょっと白く濁ってる感じが」
「まじかー」
アルバはシャツの袖で左目をごしごしと擦り、「どう」と尋ねた。目の縁が赤くなっただけだった。無意味を通り越して有害な行動にシオンは失笑し、それから小突いて「さっさと病院行け」と言ってやった。
「病院嫌いなんだよ」
「ガキかよ。行かざるを得ない状況作ります?」
「椅子に両手を伸ばしながら聞いて頷く人間いると思ってる?」
「人間だったんですか!?」
「お前の目にはボクは何に見えてるの!?」
シオンは彼を覗き込んだ。しろい顔。薄青い目。何に見えているのだろう。わからないからもっと近づける。呼吸が頬を撫でた。生きているということ。
皮膚が邪魔だと思った。もうすぐ鼻の先がぶつかるのに、シオンはまだ何も見いだせていない。焦点が合わないほどの距離で見つめていたら肩を掴んで引き剥がされ、アルバの上ずった声が聞こえた。
「ちょっ何してんのお前怖っ!新しいタイプの頭突き!?」
「すみません息が臭かったので失神してました」
「後ろに倒れろ介抱はしてやるから!」
「ねえ、勇者さん」
「……その呼び方やめろって」
「ねえ」
呟く声は平坦だった。そして、どこかに縋るような響きがあった。
「オレはあなたの従兄弟に似てる。そう言いましたよね」
「うん?」
「あなたは誰に似てるんですか」
夏の日差しが一瞬だけ翳った。沈黙が訪れて初めて、蒸し暑い教室にセミの声が届いていたことを知る。つくりものめいた時間。アルバは間の抜けた顔で笑った。
「誰だと思う?」
「……分かりません」
「ボクはいろんな人に似てるらしいんだ。あんまり深く考えない方がいいよ」
雲が流れてしまったようで、蛍光灯の明かりのない教室はまた自然光で満ちていく。アルバの顔の半分が照らされ、細められた瞳の色を分からなくさせた。彼は紙パックの無調整豆乳にストローを差し、温んだ味に少し眉を寄せて見せた。もう空気は変わってしまっていた。そういえば、とアルバが言う。
「インターハイってそろそろだよね。頑張ってね副部長さん」
「どうも。荷物持ちとか雑用係とか打ちこみ人形とかボロ雑巾とか足りてないんですけど今からでも入部しません?」
「予算とマネージャー使えよ剣道部こえーよ……」
ボロボロの教室は昨日までと何も変わらない。白墨の跡の残る黒板は薄汚いし、時計は4時5分のまま止まっているし、机と椅子は乱雑に散らかったまま埃を被って沈黙している。当然、窓の外から女の上半身が突入してくるようなこともない。何の変哲もない日常。それなのに、そこに灰色の少年がいるだけで何もかもが嘘に見えてくる。
嘘。
食い違う入れ物と魂。元陸上部のくせに剣胼胝のある左手。色の違う瞳。翌日には消えている切り傷。三年部所属の数学教師をお前の父さんと呼んだこと。アルバが単身者用のアパートに住んでいることをシオンは偶然知ってしまった。存在しない叔父の甥、存在しない叔父の息子の従兄弟。ロス。近くに寄ってよく見なければ分からなかったが、彼はまるで寄せ集めのパーツで組み立てられたような生き物だった。
アルバに似た人間をシオンは知らない。それにも拘らず、彼の頭は勝手に何かを思い出そうとする。喉につっかえる程の違和感と胡散臭さを覚えているのに隣に立つのをやめられない。スタート地点に立つより前からゴールには恋情が設定されてしまっていた。
ロスとは誰なのだろう。そして、シオンは誰なのだろう。
夜毎はっきりしてゆく奇妙な夢を、そこに現れる顔の見えない男の正体を、今日こそ掴める気がした。