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肩甲骨は痕跡器官ではない。彼の背には羽など無くて、つまりはひとりの人間でしかなかったということ。
*
静かだった。
墓穴世界には密度の高い沈黙と、明瞭な暗闇が充満している。温度も死臭も感触も無かったが、押しつぶされそうな重さは絶え間なく降り注いでいた。耳元で微かに唸るそれは、己の血がからだを巡る低い音。生の名残。引きずる幻想。目の前には川どころか一筋の水も流れておらず、長く列を成したひとの群れはゆっくりと歩を進める。彼ら彼女らのしろい体は、繋がっているはずの箇所が断裂していて、内側にあるべきものがはみ出していて、パーツが少しずつ足りていなかった。年齢も民族も異なる顔には等しく虚ろな無表情が貼りついており、ただ一点を見つめているようでいて何一つ見えてはいなかった。皆一様に死んでいた。
彼らの向かうこの先のどこかに何があるのか、アルバには分からない。
ぼんやりと彷徨う視界の上の方から、時々きらきらとした粉のようなものが舞い落ちてきた。手を伸ばして触れるとそれは母親の声であってミルクとパンの味であって誰か男の笑みであることがわかった。アルバの中でアルバをつくっていたものが、恐らくは頭の天辺から外に出て、この何もない場所を照らす光源となっているのだった。これが無くなってしまったらどうなるのだろう、と少年は考える。きっと何も見えなくなる。何も分からなくなって、どこにも行けなくなる。そうしたら、この死んだ場所に佇んでいなくてはならない。永遠に。靄がかかった思考のまんなかに突然冷たい閃きが差し込んで、アルバは震えはじめた。恐ろしくて仕方がなかった。行かねばならないと思った。
長くは生きていない上、あまり記憶力のいい方でもなかったから、アルバの中のアルバの残りはきっとそう多くはない。それに、手放すのが惜しいものがいくつかあった。きっとそれは他のどれよりまばゆく輝くのだろうと思われたが、一瞬のひかりに変えるよりも、消えてなくなるその時まで胸の内側に燃えていて欲しかった。
最早繋がっていないはずの足を、一歩踏み出した。断ち切られてしまった腹に力を込めた。足音も立てられないくらやみの世界の中、アルバは死者の行進に加わるために歩き出す。
途端に後ろからぶん殴られて振り向いたそばからアッパーを喰らいバランスを崩したところに足払いを掛けられ転んだ瞬間腹を踏まれた。全力だった。内臓が口から出そうだった。
「ちょっやめ死ぬマジ死ぬ」
「既に死んでるじゃないですか」
「お前のお陰でもう一回旅立ちそうなんだって」
「マイナスにマイナス掛ければプラスですよ」
「そんな苦痛塗れの掛け算したくないわ!」
半泣きで喚くアルバを見て、男はにやにやと笑みを浮かべた。今まで見た中で一番満足そうな顔だった。
少年が咳き込みながら立ち上がると、いきますよ、と言う声が投げられた。彼は既に歩き始めていたので、慌ててその背を追わなくてはならなかった。
男は迷いのない足取りで、アルバの数歩先を進んでいた。ほんの少し目を離した隙に彼の有様は変わっていた。トレードマークの髪型は崩れてしまっていて、左腕の蒸気機関が無くなり、ハーフプレートも外していた。薄いシャツの内側には、骨と肉で組み立てられた背中のかたちが描かれている。
「……身軽になったなあ」
アルバの呟きに応えは無かった。一歩を踏み出す動きに連動して上半身の筋肉がうねり、肩甲骨が浮き出る。飛べるのかな。呟きは口の中に籠り、届くことはなかった。
歩みを止めないまま、二人は少しだけ話をした。男が少年を揄い、それに少年が半ば叫びながら答えるという常と変らない応酬だった。多大な努力と見て見ぬ振りの上に築かれたいつも通りはすかすかと軽すぎる手触りだった。言葉が途切れると、継ぎ足すものを見つけるために頭の中を総ざらいしなくてはいけない。そこでアルバは不思議なことに気付いた。零れ落ちたはずのものが戻ってきていたのだった。行き先を照らす強い光は、彼の掲げ持つランプが生み出しているようだった。いつの間にそんなものが現れたのか。ぶわりと広がる青年の影は、アルバの体をすっぽりと包み込んでしまった。長い長い葬列からはひどく離れてしまっていて、戻ることは叶わないように思われた。彼はひたすら進んでいく。
どこに行くの、と言った。声は掠れていた。
戻るんですよ。と言った。声は掠れていた。
歩き出してこの方、男は一度も振り返らなかったので、アルバには彼の表情が分からなかった。すぐそこにいるのに果てしなく遠いような気がした。追い縋るのか、肩を叩くのか、その後の動きを自分でも予測しないまま、前を行く灰青の姿に手を伸ばした。
指先が触れた。
布越しの肉には血の通った温度があった。肩甲骨はまるくそれ自体として完結していて、翼の名残などではなかった。青年の背中は想像の中よりもずっと小さかった。この背に負われた日のことを思い出した。背を追うばかりでは見えないものがあることに気が付いた。アルバは己が走らなくてはいけなかったことを知った。
そして、彼は振り向いた。静かに整った顔はしろく、どこか遠くに向かう人々と同じ色をしていた。アルバが口を開くより先に、男がちいさな声で名を呼んだ。
「ねえ、オレの名前覚えてますか」
溢れ出そうとするものを堪えるような歪んだ響きを聞き取って、アルバは俯いた。具体的なことも核心的なことも何一つ分からなかったが、遅すぎたのだということだけは感じ取ることが出来た。けれど、これは懇願だった。答えない訳にはいかない。彼にそんなことをさせてしまうものを憎らしいとさえ思った。
「……ロス」
ロスは笑った。少なくとも、笑みのように見える表情をつくりだした。構成物はまるで異なるはずなのに、やはりそれは例の参列者たちの顔だった。少年は叫ぼうとして、喚きたてる言葉を持たないことに気付き呆然とした。その隙を突くようにして、ロスは囁く。
「 」
ロスは囁きなどしなかった。アルバは彼と歩きなどしなかったし、迎えに来られることもなかった。墓穴世界などそもそも存在しなかった。時間は巻き戻された。
その空白を埋めるべき言葉を知る者はおらず、その空白を知る者もいなかった。
失われてしまった。
何も知らないまま、置き去りにされ、泣きながら、叫びながら、道に迷い、名を呼びながら、痛みの中で、血に塗れ、やっと少年は走り出した。
彼の痕跡を追うために。
その背を追い越して、隣で笑うために。